駅逓司の新設と歩み

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島崎藤村の『夜明け前』は、わが国近代交通の夜明け前、つまり、宿駅制度の崩壊過程の史料としても貴重な作品であるが、中山道馬籠(まごめ)宿の問屋・本陣職・庄屋をつとめる主人公青山半蔵の目を通して慶応三年(一八六七)ごろの状況が次のように書かれている。
古い伝馬(てんま)制度の改革が企てられたのもあの時からで、諸街道の人民を苦しめた諸公役などの無賃伝馬も許されなくなり、諸大名の道中に使用する人馬の数も減ぜられ、問屋場刎銭(はねせん)の割合も少なくなって、街道宿泊の方法まで簡易に改められるようになって行きかけていた。……何事も土台から、旧時代からの藩の存在や寺院の権利が問題とされる前に、現実社会の動脈ともいうべき交通組織は先づ変りかけて行きつつあった。(傍点筆者)

 青山半蔵は島崎藤村の父がモデルといわれているが、新しい時代の「夜明け前」つまり社会が大きく動くとき、その動脈であり、土台である交通組織がまず変化すると藤村も指摘している。その変化の過程を概略的にみることにしよう。
 慶応三年十月の大政奉還と、それに続く王政復古の大号令以降の数年間、明治新政府の交通・通信行政は二転三転と試行錯誤を繰り返す。まず、新政府が幕府の制度を踏襲せざるを得なかったのは、根本的な改革の計画がなかったことと、戊辰戦争の軍事輸送や、天皇の東京往復の行幸などには、従来の継立賦役に頼る必要があったからである。江戸時代に宿駅を管理した道中奉行所に代わる管理機関の名称及びその機関の所管役所もその混迷を反映して目まぐるしく変る。慶応四年(一八六八)閏四月の太政官職制の改定で会計官中に駅逓司(えきていし)が新設され、京都宿駅役所は駅逓役所と改称され駅逓司に属した。十月には駅逓司は東京に移り(京都駅逓司は翌年五月まで存続)、翌明治二年(一八六九)四月には新設の民部官(七月には民部省)に移管し、同四年(一八七一)七月には大蔵省に移り、八月駅逓寮に昇格、同七年(一八七四)一月には内務省に移り、同十年(一八七七)一月には駅逓局に昇格し、同十四年(一八八一)四月には農商務省所管となり、同十八年(一八八五)十二月に独立して逓信省となっている。
表54 幕末時石部駅における継立状況
年度宿助郷
安政2年(1855)22,03418,99433,3923,527
安政6年(1859)23,02119,69237,7611,719
慶応元年(1865)26,44721,842126,8755,590
『滋賀県市町村沿革史』より作成