駅逓司の施策

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駅逓司は、新設直後から翌明治二年にかけて宿・助郷(すけごう)一体化による組み替え、一〇〇人・一〇〇匹の定立人馬の廃止、無賃休泊、無賃公用普通便継立の廃止、人馬定基準賃銭の増額(元賃銭の七・五倍)、人馬遣高の大幅制限、地子免除、問屋・飛脚米の廃止、そして宿は駅に、問屋場は伝馬所と改称し、問屋役人・助郷総代などの役職も廃し、新たに一体化された宿・助郷のうちから入札で伝馬所取締役が選出されることなどの施策を進めた。
 石部駅では、その伝馬所取締役に助郷村からは針村の北島半七が選出されたが、宿方からは希望者がなく選考は難航したが、固辞していた本陣職の小島金左衛門が選出され慶応四年七月二十八日、両人は駅逓役所より伝馬所取締役に任命されている。そのほかに取締添役・肝煎(きもいり)・勘定方なども選出された。
 宿・助郷一体化をねらいとする再編成は、宿と助郷との対立および両者とそれ以外の村々との対立を解消して、賦役負担を平等化しようとする政策であったが、この再編はかえって混迷を深めた。
 一例であるが、新しく石部駅の助郷を命ぜられた村の中には、往復に数日を要する村なども含まれていた。そのひとつ、河内国古市郡古市村(大阪府羽曳野市)の庄屋からは、遠方すぎて百姓が困窮するとの理由で出役免除の嘆願書が、駅逓司に提出されるという状態であった。
 明治元年、同二年の二年間に石部駅の借金は二、五一〇両に達し、同二年三月に取締役小島は改めて病気を理由に辞任を申し出ている。結局、旧来の定賃銭体系を維持し、賦役量の増大をはかったこの施策は挫折し、駅逓司は同三年(一八七〇)三月駅法の再改正を行った。
 すなわち宿・助郷一体化を廃し、附属助郷、一〇〇人の定人足の復活、米三五石の支給、駅馬定賃銭を廃止して相対雇いとする。人足定賃銭を再値上げして元賃銭の一三倍とする。人足遣高の大幅な制限などがそれである。これらの措置の徹底を図るため東海道各駅には、府藩県官員が指導監督のため派遣され、従来の伝馬所取締役は役を免ぜられて元締役となった。石部駅では膳所藩より駅逓掛官員が出張して元締役に小島雄作ら三人が任ぜられている。