明治三年、東京・横浜間の電信が開通し、横浜・神戸間の定期航路の就航、新橋・横浜間の鉄道建設の測量が開始されるなど、電信・海運などの革新がはかられる中で、宿駅制度だけが一時しのぎでとりつくろうような改革では、新しい時代の要請に応じきれないことは明らかになりつつあった。
そこで駅逓司は、駅法再改正が布告されてからわずか二ケ月後の同年五月、民部・大蔵両省合議による「宿駅人馬相対継立会社取建之趣意説諭振」を決定した。これは、従来の公的機関である伝馬所とは別に、私的な継立会社としての陸運会社を設立し、これによって街道の継立の緩和をはかることにした。陸運会社は、政府の強い指導監督の下にあったが、相対(あいたい)賃銭によることは勿論、継立に人馬・駕籠(かご)のほか車力輸送も加え、継立距離も駅制に拘束されず、士農工商の区別もなく着順にしたがって継立てるなど、従来考えられなかった方法を採用した。
明治四年秋以降の駅逓司官員による熱心な巡回勧誘が功を奏し、各駅に陸運会社が設立される。その結果、同五年(一八七二)一月、東海道各駅の伝馬所及び助郷が廃され、八月末にはその措置は全国に及ぼされた。
石部駅の陸運会社が営業するのは同年一月であり、当初は本陣の小島金左衛門・雄作ほか一〇人が交代で詰めていたが、七月よりは小島雄作が一人で請負っている。こうして慶長六年以降、幕藩体制の根幹であった宿駅制度はその終焉を迎えるのである。