飛脚と特権

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天明二年(一七八二)定飛脚問屋の株仲間が公許されて以来、商品流通の発展とともに発達した定飛脚問屋は、五街道以外にも出店を設け、大名が藩地と江戸との間に特別に設けていた大名飛脚や、幕府公用急便である継飛脚をも請負うようになっていた。それは定賃銭に準じて宿駅人馬を利用できるという幕府より与えられた特権によるが、明治になって、彼らはその庇護を明治政府に求めた。
 慶応四年(一八六八)八月、定飛脚問屋はとりあえず元賃銭の一一倍(本馬一匹一里四四〇文)で一ケ月九三駄分の宿駅での使用を認められた。当時の公用時の定賃銭は元賃銭の七・五倍の三〇〇文だったから、それよりも高いが、ほぼ一貫文の一般の相対賃銭に比べれば割安であった。しかし、十二月には東京と京都にある諸官庁相互の公用状及び荷物はすべて伝馬所において本馬一匹六回六日間で継立てるように改められ、さらに翌明治二年(一八六九)四月にはすべて宿駅により相対賃銭により雇うように改められた。
 定飛脚問屋の株が公許された天明二年から数えても一〇〇年近い準定賃銭による継立という特権を失うこの処置は、定飛脚問屋にとって経営的に大きな打撃を受けることになった。長年、幕府の物権付与に甘えていた彼らは、この期に及んでなお旧来の準定賃銭の復活を駅逓司に陳情している。このような定飛脚問屋の姿勢からは新しい時代の通信の担い手を期待することはできなかった。
 ここで、当時の大阪での飛脚の状況・賃銭・逓送日数・利用者などについて「飛脚ノ話」(『大阪商業史資料』)によりみたい。
維新前後は大阪から江戸まで早というのが日数は七日間位、中便が八日目毎に発し、またおよそ二十五日間、並便は△といって三十日もかかったものである。……普通荷物が一貫目につき江戸金十五匁(一両六十匁立)、早便は一貫目につき二十五匁定めであった。而して信書には正六(六日限)といって二・五・八の夕方までに集めて、同夜亥の刻に差立てるのであるが、信書一通金二朱であった。
 別仕立てとなると三日限・四日限・六日限というのがあって、すべてこの目方は三百目までとして、三日限の賃金は三十両、六日限で金八両で請負ったものだ。……三日限の便は町方ではまあ皆無といってもよいくらいで、大抵蔵屋敷からの御用などに、四日限・六日限もまあ大名屋敷の御用状のみであった。たまたま町方の商人のものもあったが普通の家では一通の信書に八両も十二両も賃銭をかけてやることは滅多(めった)になし。

 口述者はおそらく維新前後に飛脚業を営んでいた人と思われるが、これほど高額では飛脚はとても庶民の利用できるものではなかった。しかし、当時は、従来の継飛脚に該当する諸官庁が発する急用公文書も、この定飛脚が請負っていた。それを改めて、駅逓司が公用便を伝馬所宿継便に切り替えたのは明治三年(一八七〇)七月である。ここに飛脚問屋が従来取り扱っていた公用便は、明治元年十二月の普通便に加え、急用便も伝馬所の扱うところとなった。
 この伝馬所宿継便は「追而郵便法御施行相成候迄」(「駅逓明鑑」『郵政百年史資料』)とあるように東海道新式郵便の試行と考えられる。
 なお、当時の石部駅における御用物・御状箱の継立状況は表55のようであった。
表55 石部駅における御用物・御状箱継立状況(明治3年4月~4年3月)
草津駅へ水口駅へ
明治3年4月136.5247.7384.2
5月167.6157.2324.8
6月110.5170.6281.1
7月175.6138.3313.9
8月169.0196.5365.5
9月227.55211.8439.35
10月220.4203.6424.0
閠10月250.3309.2559.5
11月231.4266.7498.1
12月250.8142.8393.6
明治4年1月194.3152.5346.8
2月153.6195.8349.4
3月132.4112.7245.1
2,419.952,505.404,925.35
月平均186193379
御用物継立には、荷物5貫目1人持の定めがあり、30貫の長持は6人で担ぐのが例であるが、これを5人で担ぐと1人を1.2人分と計算した。
「石部駅御用物御状箱継立人足高調」(『藪内吉彦氏文書』)より作成