明治四年三月、これまで荷物・書信の逓送を一手に請負っていた定飛脚問屋は致命的事態に直面することになった。官営東海道新式郵便の創業である。しかし生まれたばかりの官営郵便にとっても、長い伝統を有し必死の巻き返しを図る飛脚は強敵であった。当初政府高官の中にも郵便のことは政府が監督して再び飛脚屋へ戻してもよいという意見もあり、イギリスで近代郵便の知識を得て帰国し、自らすすんで同年八月十七日駅逓頭に任じた前島密(まえじまひそか)にとって頭を痛める問題であった。そこで前島は、定飛脚問屋を官営郵便事業の下請に使うことを考え、秋以降、定飛脚問屋の代表である和泉屋の名代佐々木荘助を通して説得した。官営郵便との徹底抗戦を避けて政府の意図にしたがうことが、近代社会に生き残る道であることを理解した定飛脚問屋は、同五年六月、資本金五万円で陸運元会社を設立した。
しかし陸運元会社は、定飛脚問屋の後身なので独自の逓送手段を所有しておらず、したがって各地の陸運会社との提携は不可欠の条件であった。
一方、各地の陸運会社の実態は半官半民的で、継立に際し刎銭の強要、近村よりの人馬の徴収、旧宿駅時代の借金の駅中への賦課など伝馬所時代の悪弊から脱し切れず私企業として成長する見込みはなかった。駅逓寮としては、陸運元会社設立を機に各地の陸運会社がこれに加盟することにより、全国的な郵便網及び運輸網の整備を考えた。
その計画をほぼ達成した明治八年(一八七五)二月には、元会社は元締(もとじめ)の意味がなくなるので社名を内国通運会社と改め、五月末には各地の陸運会社は解散を命じられた。この内国通運会社は、昭和三年(一九二八)には、合同運送・明治運送・国際運送を合併して国際通運会社となり、さらに同十二年(一九三七)に日通の名で知られる日本通運株式会社となる会社である。
なお、明治六年(一八七三)四月より行われた官営郵便の請負業務は、金子(きんす)入書状の逓送・配達のほか、毎日駅逓寮から各地の郵便取扱所への郵便脚夫の賃銭・手当金・郵便切手、及び各郵便取扱所からの上納金、さらには馬車による郵便物の長距離輸送など多岐にわたっていた。