陸運元会社石部取扱所

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石部駅で、最も早く陸運元会社に加盟するのは小島雄作である。東京陸運会社時代の佐々木荘助と武田喜右衛門の二人が、同社への加入の勧誘に滋賀県下を巡回するのは、同五年七月二十日、二十一日の両日であるが、彼はこの時、加盟を申し出ている。年齢も若く、東京の状況などもある程度察している小島は、自分が請負ったばかりの石部陸運会社の将来性に見切りをつけ、明治政府の意図する陸運政策にいち早く順応したと思われる。事実、小島は「名望財産アル者ヲ撰テ元会社ニ加入セシメントス」(『大日本駅逓志稿』)との条件に最もふさわしい人物だったと思われる。
 彼は同六年四月以降、自宅に陸運元会社取扱所(すぐ分社に昇格)の掛札を出して営業を始めるが、当時は石部陸運会社もなお営業を続けており、両者の間にしばしば荷物の継立に関して混乱と紛争が起きている。元会社である小島が陸運会社との一元化を滋賀県に何度も願い出ているが、同年十月十五日の願書には、陸運会社の旧態依然たる様子がうかがえて興味深い。
当駅陸運会社之儀、駅内町役廿八人之者引請、陽に宿のためと唱えて多人数が旧伝馬所へ相詰め、なかには袴・羽織を着用し、日夜当番・非番を定め、さながら御用荷物継立所の備を立て……

 しかし、秋以降、付近の継立業者で小島の元会社へ加入する者も次第に多くなった。たとえば同年十一月に泉村の田代又右衛門ら六人が加入しているなどはその一例である。
 なお、同七年(一八七四)一月現在の陸運元会社の資本金は六万七、三〇〇円で株主は一二七人である。うち東京在住の三〇人は頭取吉村甚兵衛(元定飛脚問屋、和泉屋の主人)の一万四、六〇〇円をはじめ、ほとんどが旧江戸定飛脚問屋の関係者であり、地方の株主九六人は、ほとんどが宿駅関係者か、街道の飛脚業者であり、一株一〇〇円の株主として小島雄作の名もみえる。