彼は同六年四月以降、自宅に陸運元会社取扱所(すぐ分社に昇格)の掛札を出して営業を始めるが、当時は石部陸運会社もなお営業を続けており、両者の間にしばしば荷物の継立に関して混乱と紛争が起きている。元会社である小島が陸運会社との一元化を滋賀県に何度も願い出ているが、同年十月十五日の願書には、陸運会社の旧態依然たる様子がうかがえて興味深い。
当駅陸運会社之儀、駅内町役廿八人之者引請、陽に宿のためと唱えて多人数が旧伝馬所へ相詰め、なかには袴・羽織を着用し、日夜当番・非番を定め、さながら御用荷物継立所の備を立て……
しかし、秋以降、付近の継立業者で小島の元会社へ加入する者も次第に多くなった。たとえば同年十一月に泉村の田代又右衛門ら六人が加入しているなどはその一例である。
なお、同七年(一八七四)一月現在の陸運元会社の資本金は六万七、三〇〇円で株主は一二七人である。うち東京在住の三〇人は頭取吉村甚兵衛(元定飛脚問屋、和泉屋の主人)の一万四、六〇〇円をはじめ、ほとんどが旧江戸定飛脚問屋の関係者であり、地方の株主九六人は、ほとんどが宿駅関係者か、街道の飛脚業者であり、一株一〇〇円の株主として小島雄作の名もみえる。