創業当初、郵便御用は従来の伝馬所の一隅で行われ、その責任者は各藩より出張していた駅逓掛の官員であった。明治三年(一八七〇)三月の駅法再改正以来、彼らは東海道各駅に出張していたが、石部駅の場合は、東海道石部駅出張膳所藩駅逓掛として、権少属杉浦重文・同田中重孝・少属饗庭光久らの名がみえる。おそらく彼らが交代で伝馬所に詰め、時にその一隅にあった郵便取扱所へ時々顔を出していたのが実態であったと思われる。そして書状継ぎ立て、配達の実務は伝馬所出仕者が行っていたとみられる。
同四年「三月中勘定書書上帳」には、石部駅郵便所信書取扱方として、青木左助・花井久六・小島金左衛門・福島真次郎・前田清兵衛の名がみえるが、彼らは同年二月に膳所藩駅逓御役所に宛てた「乍恐奉願上口上書」に差出人として書かれた石部宿御伝馬所肝煎役及び元〆役の五人とまったく同一人物である。
同五年一月には、本章第一節でみたように石部駅でも伝馬所が廃されて陸運会社が営業を始める。そして、それまで伝馬所で取扱ってきた郵便事業、すなわち郵便切手の売捌(さばき)・書状取集メ箱(ポスト)の取集め、郵便物の継ぎ立て・市街及び近傍五里以内の配達などすべてがこの陸運会社に委託される。
この陸運会社の営業当初、陸運業務とともに郵便御用に従事した者として先述の五人や、山本順治・奥野宗二郎・井上治八・三大寺専治・三大寺源平・三大寺小右衛門・山本十兵衛・奥村清左衛門らの名がみえる。彼らは本陣を勤める三大寺小右衛門をはじめ、旧宿駅時代に宿駅事務に携っていた人たちであった。彼らは先述したように、さながら御用荷物継立所のように、しかしまた同時に従来取扱ってきた書状継ぎ立ての経験を生かして郵便御用に従事していたのである。
後には小島雄作が一人で請負うのであるから書状継ぎ立て数はそれほど多くなく、また巡回駅逓司への質問にも「飛行会社」とあるように、当初官営・私営、陸運・郵便の区別の認識がどの程度あったかは疑問である。