差出地 | 通数 | 受取人村名 | 通数 |
---|---|---|---|
三上 | 1 | ||
計 | 102 | 計 | 102 |
駅間の継ぎ立ては、飛行脚夫と呼ばれた脚夫により行われた。この脚夫は各駅八人と定められていたが、石部駅ではとりあえず六人で始めたようである。「三月朔日より郵便御発行ニ付、毎宿ニ飛行人足八人相抱、順ニ割当申スベキ処、先ツ試ノため在来ノ刻取四人使役、二人都合六員ニて手始メ候処」とあり継飛脚要員がそのまま郵便脚夫として採用されたことがわかる。また、定められた逓送時間は厳格だったことが次の小島雄作の前島駅逓頭への請書(「明治八年郵便御用留」『藪内吉彦氏所蔵文書』)からもわかる。
当石部ヨリ
一 草津ヘ 里程二里三十二丁四十八間一尺
二時間五里之割
逓送時間一時二十五分
但、定則之速度一時十分之処、途中手原村郵便局ヘ立寄 此時間凡六分
一 水口ヘ 里程三里六丁十八間二尺
二時間五里行之割
逓送時間一時三十六分
右之通、脚夫ヲシテ屹度(きつと)速度ヲ履行可為仕、萬一事故ナクシテ渋滞有之時ハ、私ニ於テ其譴責ヲ可相請、此段御受仕候也
このように分単位まで定められており、「事故ナクシテ渋滞」した場合、しばしば譴責を受けている。この請書の明治八年(一八七五)十月の段階では、石部・水口間の横田川は仮橋で雨期の出水時には舟で渡ったようである。同四、五年には川支(かわづかえ)が多く、その折には、加太越関駅までの約一二里(四八キロメートル)の間道継ぎ立てを指示されて困窮している。
郵便脚夫は三貫目(一一・二五キログラム)の郵便行嚢を天秤棒にくくりつけて「一時(とき)五里」つまり時速一〇キロメートルの平地で定められていた速度で街道をひたすら走った。「滝谷と申峠これあり、四境樹木生茂り深雪の節ハ道路降埋で明らかならず歩行相成難し」とは小島の建言書の一節であるが、川支の際や、炎天下、または厳冬の降雪や積雪時の郵便脚夫の苦労は並大低ではなかった。天候だけでなく、夜間、山中での逓送時には郵便物はよく強盗に狙われ、命を落とす脚夫もおり、石部駅では同七年一月二十二日、駅逓寮より六十五号、六十六号の六連発ピストル二挺が交付されているが、時には脚夫の継ぎ立ては命がけだったのである。なお郵便脚夫には、一人一里銭六〇〇文基準で賃銭が支払われ、三貫目以上と夜間(二人)の場合は割増賃銭が支払われた。
写162 街道を走る郵便脚夫 『郵便現業絵図』明治10年代(郵政研究所附属資料館所蔵)