料金均一制・官営独占制

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駅逓司自らが「新式郵便」と名付けたのは、わが国通信史上、画期的なものであったが、料金均一制と官営独占という近代郵便としての必須条件は、まだ達せられていなかった。明治四年(一八七一)一月二十四日太政官布告(郵便創業布告)は「飛脚便ヲ可成丈簡便自在ニ致シ候儀、公事ハ勿論士民私用向ニ至ル迄」の利用をうたっているが、創業当時の配達地別制はもちろん、同年十二月五日改正の場合でも「貧窮ノ者共、遠国近在互ニ其情ヲ通ジ」あえる郵便料金ではなかった(表59)。
表59 創業当初の郵便料金表(書状)
明治4.3.1基本料金(1通について)
最低賃銭100文、最高賃銭1貫500文
幸便地増料金(目方にかかわらず1通毎)
最寄駅より1里以内銭100文、1里以上1里毎に銭200文
明治4.12.5基本料金(1通2匁毎に)(同月4匁に改正)
25里まで100文
50里まで200文
100里まで300文
200里まで400文
200里以上500文
不便地増料金(目方にかかわらず1通毎)100文
明治5.7.1基本料金(1通4匁毎に)
25里まで1銭
50里まで2銭
100里まで3銭
200里まで4銭
200里以上5銭
不便地増料金(目方にかかわらず1通毎)1銭
明治6.4.1基本料金(1通2匁毎に)
市内1銭
市外2銭
不便地増料金(目方にかかわらず1通毎)1銭
『藪内吉彦氏所蔵文書』より作成

 前島はイギリス滞在中に、ローランド・ヒル考案による料金遠近均一制、及び郵便事業が政府の専掌事業であることが近代郵便の必須条件であることを学んでおり、駅逓頭就任一二日後の明治四年八月二十九日、郵便官営独占制と料金均一制を内容とする「郵便新律之伺」を大蔵省に提出している。理論的にみて、料金均一制を採用すれば、近距離の料金は原価に比して相対的に高くなる。飛脚という競争相手がいる限りこれは不可能で、独占があってはじめて料金均一制が可能となる。官営郵便と飛脚との熾烈な競争は、飛脚のドル箱であった東京・横浜間の場合が有名であるが滋賀県でもみられた。
 同五年(一八七二)二月十五日、滋賀県令松田道之が大蔵省に提出した郵便料金値下げの建言書には大意次のように書かれている(『駅逓明鑑』)。
八幡町・大溝町・堅田村などの者は、京都への書状が多く、これまでの飛脚を利用すれば毎日京都へは六時間で達し、賃銭も目方にかかわらず一通およそ三二文、急便でも五〇文から七〇文である。しかも飛脚屋は自宅まで取り集めにきてくれるので、居ながらにして荷物・書状とも差し出すことが出来、しかも半年後払いである。それに比べて郵便は二五里までが一〇〇文もするので、京都・大阪近傍へは利用する者は少ない。……せめて一五里以内五〇文に改正していただければ郵便取扱所は繁昌し、天下の人民は便利となろう。

 もっともな意見であるが、この時点で駅逓寮は「無意味な料金引下げ競争となりかねないから従来どおりとし、官営独占の日を待つように」と回答している。当時、営業成績を度外視した飛脚の攻勢に押され、東京・横浜間の郵便料金は、開設時の明治四年七月十五日は二四八文だったのを翌月には四八文と大幅に値下げせざるを得なかった。やがて、前島駅逓頭による東京定飛脚問屋代表佐々木荘助への説得が効を奏し、同五年六月一日に、まず東京・横浜間の信書私送が禁止された。そして、翌明治六年(一八七三)四月一日より、郵便料金は全国均一制が実施され(表59参照)、翌五月一日より郵便事業は官営独占、政府の専掌事業となった。同年三月十日の太政官布告「郵便規則」の前文には次のようにある。
今明治六年四月一日ヨリ郵便賃銭ノ称呼ヲ廃シ、郵便税ヲ興シ量目等一ノ信書ハ里程ノ遠近ヲ問ハス国内相通シ、等一ノ郵便税ヲ収メ候条、詳細ノ儀ハ改定郵便規則書ノ通可相心得事
同年五月一日ヨリ信書ノ逓送ハ駅逓頭ノ特任ニ帰セシメ、他ニ何人ヲ問ハス一切信書ノ逓送ヲ禁止ス、若其禁ヲ犯シ候者ハ郵便犯罪罰則ニ照フシ令処分候条此旨可相心得事

 これによって、ようやくわが国の郵便は近代郵便としての条件を整えることになったのである。そして同年四月一日に、従来の郵便役所(東京・大阪・京都・横浜・神戸・長崎・函館・新潟)を一等郵便役所とし、郵便取扱所のうち、二七〇ケ所を選んで郵便役所に改め、これを二等七〇局、三等四四局、四等一五六局に区分した。その際、石部は四等郵便役所となった。