郵便取扱所・郵便取扱役

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明治五年一月の東海道の宿駅廃止による各府県官吏の引き揚げに際し、郵便取扱所は、すべて駅逓寮官吏が所轄するようにすべきだが、それには莫大な費用がかかるので、とりあえず重立駅を設けたことは既述のとおりである。
 東海道ばかりでなく、全国の宿駅廃止が、日程に上るようになった同四年末、駅逓寮は、すべての郵便取扱人に駅逓寮の準官吏としての社会的地位を名目的に与える方策を考えた。同年十二月十七日、駅逓寮が大蔵省へ提出した「郵便取扱所ノ者ヘ当寮附属名目被下度儀ニ付伺」には「多分ノ御手当下サレ候ハバ多分ノ箇所故、実ニ多分ノ御費相成ルベク、依テ勘弁仕候所、御手当ハ別ニ下サレズ、是迄ノ通定置、郵便取扱所御用相勤候内ハ、当寮等外三四等附属格ノ名目ノミ下サレ置候ハバ、自分ノ誉ノタメ精勤致シ候様、相成ベクト存候」(『駅逓明鑑』)とある。
 その結果、明治五年三月十八日には「先ツ当分之内ハ其土人中ヨリ官員ヲ撰ビ、其者之居宅ヲ以テ仮役所ト致シ、専ラ其事務ニ相当リ候様為致度」(『駅逓明鑑』)との省議が決定した。
 同五年末の郵便機関の数は、郵便役所八ケ所、郵便取扱所一、一五六ケ所で、郵便線路は北海道の一部を除いてほぼ全国的に拡張された。そうなると郵便取扱所設置場所も主街道とは限らないわけで、宿駅以外の地では多くの場合、元庄屋・名主などいわゆる地方の名望家、村落指導者層の中からが郵便取扱人に選ばれるようになった。
 わが国の郵便事業が、短期間に全国に線路を拡張し得たのは、その局舎の所有者を取扱人に任命したことによる。つまり、各地方の有識資産家が封建時代に蓄積していた資本を通信の資本として動員し得たからである。たしかに、自分の家に居ながら、役人の列に加えられることは当時の人々には魅力あるものであった。
 前島は当時を回想して次のように語っている(『郵便創業談』)。
 役人といわれて役所の事務を執ることは、地方の人々などは、別して名誉としていたからです。これもやはり実費をかけずに虚栄を利用して、斯業を発展させる私のひとつの方略でした。

 この郵便取扱役の手当は、きわめて安い。七等取扱役の場合一口米として三〇銭ないし五〇銭である。明治四年九月の「駅逓寮職員俸給表」にみる前島駅逓頭の月俸二〇〇円、山内大属の七〇円は別格としても、創業時、滋賀県下各駅へ巡回にきた五島・真中権中属が三〇円、中西少属が二五円、戒能一四等出仕でさえ一五円であり、五〇銭とは当時の大工の日当よりも安い額である。額の低さもさることながら、郵便取扱役の手当に限り、旧幕時代の武士に用いた「口米」と称する言葉を用いていることにも注目したい。前島は、郵便事業を拡張するにあたり、国家の財政支出を最低限に切り詰めた苦労を次のように語っている(『帝国郵便創業事務余談』)。
取扱役の選任にあたり、余にとりて大に便宜なりしものあり。即ち当時封建時代の旧情態はなお地方において依然存在せること是なり。……平民にして藩侯より扶持米を給せらるるときは、たとい一人扶持にても大なる栄誉となす。……斯る遺風の存することこの業のために幸なれと余は最初よりこの風習を利用せんと欲し、因て稟議(りんぎ)して郵便取扱役には口米を給するとの一特例を開きたり。

 これまた、前島のいう「節約と権宜の方法を以て、事業の拡張を計画しました」と語る方策なのである。同七年(一八七四)の『駅逓寮年報』をみると、三、二三六人の郵便取扱役に対して支出した手当は年額わずか一三、〇五三円である。同年の駅逓寮の収支は収入が三三万七、六〇〇円、支出が五〇万二、一九一円、不足額が一六万四、五九一円であるが、取扱役への手当は支出額の二・六パーセントに過ぎない。手当ばかりでなく、筆紙・墨・蝋燭などの事務用品費もまた少なく、石部郵便役所が同六年五月に支給された筆紙墨料はわずか一〇銭であった。
 同四年五月十日の新貨条例で一〇〇文が一銭となるので、創業当時の郵便脚夫の一人一里の賃銭が六〇〇文、つまり六銭だったことを考えても、この一〇銭がいかに安い額だったかがわかる。