写163 小島雄作(左)と山本順治(右) 洋服を着た2人の姿は明治13年(1880)に撮影されたものである(小島忠行氏所蔵)。
小島は駅逓頭(局長)前島密や、滋賀県令松田道之に多くの建言書を提出しているが、それらを通じて活躍の一端をみていくことにしたい。彼は石部の発展を意図したのであろうか、石部を起点とする郵便線路の開設にきわめて熱心であった。すなわち同六年八月には信楽庄長野村まで、同年十二月には日野まで、同七年九月には加太越関駅まで、同八年六月には辻村経由守山駅までのそれぞれの郵便新線路を、また栗太郡の手原村・東坂村・金勝中村、甲賀郡三雲村・上朝宮村への郵便取扱所の設置を建言している。
彼は近代郵便の果たす役割、すなわち情報の早期伝達が地方産業の発達を促進し、その地方産業の活性化が逆に郵便の発達をもたらすことを承知していた。それは次の石部駅と信楽庄長野村間の継立回数を増加するようにとの建言書からも読みとることができる。
往復信書隔日ニテハ殆(ほとん)ト不都合、ナカンズク茶相場ナド折々高下コレアリ、郵便遅配ニ候テハ営業上多分ノ損亡コレアル旨、屡申出候間、何卒御賢議之上、来ル十一月一日ヨリ毎日脚夫差立候様願上奉リ度(前島駅逓局長宛の上申書、明治十年十月八日)
長野局ヘ毎日脚夫差立ラレ候様ニ命ゼラレ候ハバ茶商ノ者一層弁利を得、弥々(いよいよ)以郵便盛大ニ相成申スベクト存ジ奉候(前島駅逓局長宛の上申書、明治十一年三月二十五日)
長野局ヘ毎日脚夫差立ラレ候様ニ命ゼラレ候ハバ茶商ノ者一層弁利を得、弥々(いよいよ)以郵便盛大ニ相成申スベクト存ジ奉候(前島駅逓局長宛の上申書、明治十一年三月二十五日)
小島は、明治六年三月十八日より郵便業務を本陣である自宅に移し「第四等郵便仮役所」と「陸運元会社取扱所」の二枚の掛札を掲げている。そして彼は、「郵便」と「陸運」の二つの家業を相互にうまく利用していた面がみられる。たとえば同年八月二十二日の辻村の得意先への廻章に
今般金子入信書及諸荷物請渡郵便書状逓送方之義、駅逓寮ヨリ我等方へ拝命いたし候ニついては、各様御出店先ヨリ御差送リノ金子及諸荷物御届、且御手許ヨリ御差立ノ品請取トして日々郵便信書配達ノ際、御尋申スベク候間、我等方へ御渡下サレ度御頼談申上候
とあるのは、郵便物配達時に陸運元会社で取扱うべき荷物の有無を尋ね、また、
追而毎月三八ノ日一ケ月ニ六度ヅツ八幡へ飛脚相立、信楽へも月ニ四度ヅツ相立、東京ヘハ一ケ月ニ、三十度、西京、大阪へも一ケ月ニ、三十度ヅツ相立候間、着前御用コレアリ候ハバ御申遣レ下サルベク候
とあるのは官営郵便のことである。小島にとって家業の陸運業に「郵便御用」の看板がプラスになったと思われる。
同八年(一八七五)六月、解散した石部陸運会社も吸収合併し、同十四年(一八八一)ごろには、京阪神よりの物資は大津より山田浜(草津市)に運ばれ、やはり小島の経営する山田分社により陸揚げされ、草津・石部・水口・土山・関方面、さらには津・松坂・宇治山田と伊勢方面までの継ぎ立てを小島が経営する石部の内国通運が請負うまでに成長している。その小島にとって月額五〇銭の手当などむしろ迷惑なぐらいで、同六年三月には一ケ年金五円を「学校御入費万分ノ一ニ御差加下サレ候」と、さらに同七年九月には「御入費万歩(分)ノ一ニ御差加下サレ候」と手当辞退を建言している。
その彼も同十年(一八七七)西南戦争の特別軍事郵便ともいえる飛信(ひしん)逓送(速達便)には困ったようである。
同年四月から一一ケ月間に八七通を継ぎ立てており、うち四九通が夜継ぎであるが、当時、郵便物の継ぎ立ては内国通運の馬車便で石部郵便役所に継ぎ立ての郵便脚夫はおらず「何卒特別ノ御詮議ヲ以テ定式御手当ノ外、一局ニ書記役一名ノ給料月々御下ケ渡シ下サレ度」と建言している。石部郵便局に書記役が採用されるのは同十三年からであり、それまでは「家族共ニテ万事御用弁奉居候」とあるように小島は家族を動員していたのである。
写164 運輸分社開業通知 手原村(栗東町)から、琵琶湖岸の志那村(草津市)へ新街道が開通したことにより、小島雄作が車力(大八車)を用いて迅速な諸荷物運輸業を始めたいとした。琵琶湖岸の三ケ村に通運取扱所がみられ、同志として村名を記している(栗東町史編さん室所蔵)。