同五年八月からは、それまでの東京ならびに大阪午後七時出発の便に加えて、午後一時出発の三六時便が始まる。東京・大阪間が三日間の便である。午後七時の上り便は石部駅から草津への出発は午後一〇時ごろであり、午後一時の下り便は石部駅から水口への出発が午前零時ごろで共に夜継ぎである。飛脚より少しでも早く逓送するため、駅逓寮は同五年四月より東海道の郵便逓送に人力車を採用する。脚夫が引く人力車は時間的には飛脚と違いがないが、脚夫一人が運べる重量の四倍のものが運べた。しかし長距離の郵便物逓送には不向きであったのか、逓送途中の破損があいついで、わずか三ケ月で姿を消すことになった。
次に登場するのが郵便馬車による逓送である。同六年二月より大阪・京都間の郵便馬車が営業を始めており、同八年末からは内国通運会社による神奈川・熱田間の長距離郵便馬車が開設されている。それが石部駅を通って京都まで延長されるのが同九年八月十六日からである。
熱田駅より桑名駅まで 七里一五丁 人夫逓送
桑名駅より関駅まで 一〇里一一丁 馬車逓送
関駅より土山駅まで 四里九丁 人夫逓送
土山駅より西京まで 一六里 馬車逓送
馬車逓送は人夫逓送以上に天候に左右されたが、平均して東京・大阪間数時間のスピードアップとなった。
鉄道による郵便物逓送は、新橋・横浜間は同五年、大阪・神戸間は同七年、大阪・京都間は同十年と、いずれも鉄道開設とともに実施されている。東海道線、つまり東京・神戸間の開通は、明治二十二年(一八八九)七月でその直後に郵便物の逓送も行われている。
写165 郵便逓送車による運送 明治5年(1872)より東海道の郵便逓送に採用されたが、わずか3ケ月で廃止されてしまった(『郵便現業絵巻』郵政研究所附属資料館所蔵)。
このようにわが国の場合、西欧諸国と比べて鉄道郵便の先行形態としての郵便馬車時代はさして長くない。ポストホルンを吹き鳴らして疾走する郵便馬車は欧米の場合、郵便のシンボルとされているが、わが国でも一〇〇年前の明治十年代に、ピストルを腰にした馭者の乗る郵便馬車が、石部を東に西に往来していたのである。