連合戸長制

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明治十年代はじめに制定された三新法は、町村自治を許容した。もちろん、それは国・府県と郡の監督下においてではあったが、戸長は公選を原則とし、町村会自治費用(町村費)については審議権を有した(第一章第一節参照)。しかし、明治十年代中ごろから始まるいわゆる松方デフレによって農民層の階層分化がすすみ、国家財政の負担が地方財政へ転嫁されることにより町村財政が危機に陥るに及んで、三新法体制は改組を余儀なくされるに至った。しかも、このころには自由民権運動の発展を背景に、一部の府県で政党勢力が町村にまで浸透し、政府はそれを阻止する必要にも迫られていたのである。連合戸長制と呼ばれる明治十七年(一八八四)五月の地方制度の改革は、このような状況への制度的対応であった。その改正内容は多岐にわたるが、あえて一言でいえば、町村自治を制約して代わりに官僚による支配を強めたことである。たとえば、戸長の選挙方法を改めて官選としたこと、戸長の権限を強化して町村会への統制を強めたこと、および戸長役場所轄区域を拡大したことに端的に表われていた。
 これらの改正内容についてここで詳しくみることは避けるが、今日の石部町の区域の原型がこのときに形成されているので、それとの関連で戸長役場所轄区域の拡大について以下みておこう。