滋賀県では、早速同年七月から政府の方針にしたがって区域の画定に着手した(無号「編成下調心得」布達)。しかし、この作業は地形をはじめ「行政ノ便否水理ノ関係ヲ以テ査定ス」る必要があったので難行し、所轄区域が最終的に定まったのは翌明治十八年(一八八五)五月であった。五〇〇戸を目安とした五ケ町村までの連合という当初の方針通りにはなかなか進捗しなかったが、ともかくこれによって、県下(町村数一、六七三は一九九の戸長役場にまで、甲賀郡(同一二四)では二五にまで統廃合された。それまでも一町村が原則通り一戸長役場を設置しているとは限らなかったが、しかし、このときだけで県下は一〇分の一近くに、甲賀郡は五分の一ほどに戸長役場は減少した。
さて、石部についてみてみると、石部・東寺・西寺の三ケ村はこのときから連合することとなり、明治十八年七月石部村(現在の大字石部三四三八番地)に「石部村外二ケ村戸長役場」が設置された。三村合わせた戸数は七三〇戸で甲賀郡では四番目と大きい方に属していた(甲賀郡の一戸長役場所轄平均戸数五二六戸)。三村の連合へと至る過程には、おそらく郡長からそれぞれの村の「重立ちたる者」へ打診があったであろうし、彼らのうちであるいは近辺の村々を交えての話し合いがもたれたと推測される。初代連合戸長はかつて区長を務めたことのある三大寺専治(さんだいじせんじ)がなり、井上国正(くにまさ)がこれを補佐した(ともに石部村出身)。
ここで、石部を中心とした行政区の変遷についてふりかえっておこう。表65は、明治初年から同二十二年(一八八九)の町村制施行までをまとめたものである。行政区の変遷過程は、他町村では煩雑となるのが普通であるが、石部村(町)の場合はたいへん簡単である。それは、石部・東寺・西寺の三村による行政区域は、連合戸長制から町村制へ移行した際も、さらには今日に至るまで変わらないで続いているからである。石部町のように、明治十年代の行政区域をそのまま継承している町村は甲賀郡にはほかになく、県下でも珍しいであろう。
行政区の制度 | 行政区域 |
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滋賀県の12郡を158区に分け、甲賀郡(139ケ村)は第1区から第10区までに分けた。石部・東寺・西寺の3村は、このとき柑子袋・正福寺・平松・針・里夏見・山夏見・出屋敷・吉永・三雲・妙感寺の10ケ村とともに甲賀郡第1区に属した。 | |
区制創設 | |
従来の区制が廃止され、郡が行政区となるとともに、旧来の町村が行政末端単位として復活した。ただし、1町村で1戸長役場を維持するのが困難な場合は、連合してひとつの戸長役場を設置することが認められていた。 甲賀郡の石部・東寺・西寺の3村については、石部は単独で戸長役場を設けたが、東寺と西寺の両村は明治12年9月から12月の時期に連合して、東寺村に戸長役場を設けたようである(第1章第1節参照)。 | |
三新法下の町村制 | |
政府は経費の節約と有能な戸長の登用のため数町村連合して戸長役場を設けることを強制した。滋賀県ではこの方針に沿って、1673町村が199の戸長役場に、甲賀郡は124村が25のそれに統合されることになった。石部・東寺・西寺の3村は連合して石部村に戸長役場を設けた。 | |
連合戸長役場制 | |
明治6年以降、特に21年から22年にかけての大規模な町村合併の結果、滋賀県は22年4月において6町189村にまで統合されていた(甲賀郡は25ケ村)。町村制施行によってこれらの各町村が行政末端単位に位置づけられたのである。 石部・東寺・西寺の三村も、このとき合併して石部村となり、旧村はこののち字名で残ることになる。 | |
町村制 |
戸長役場がひとつとなったので、村会も各村「単立」のそれとあわせて、「石部村外連合村会」も開かれることになった。早速、明治十八年度から連合村費の収支予算が作られ、三村の負担額も決められている(表66)。また、連合村会の議題は、学事に関しては尋常・簡易両小学校の設置場所や教員などの給料、授業料改正について、衛生では主に種痘の実施について、また勧業では茶業や蚕業の勧奨についてであった(『東寺地区共有文書』、『西寺地区共有文書』)。
地価割 | 戸数割 | 計 | |
石部村 | 155.69 | 31.00 | 186.69 |
東寺村 | 20.60 | 2.85 | 23.45 |
西寺村 | 20.74 | 2.65 | 23.39 |
計 | 197.03 | 36.50 | 233.53 |