町村合併と新石部村

591 ~ 593ページ
町村制施行の理由のひとつは国家の基礎を強固にすることであったので、政府は「自ラ独立シテ基本分ヲ尽ス」「有力ノ町村ヲ造成」することを急務とした。もっとも、自然村を統合するこの政策は、他方では共同体的秩序を支える「隣保団結ノ旧慣」を損ない、国家の基礎をむしろ不安定にする側面をももっていた。したがって、町村合併は、政府にとって「日夜殫(たん)思シ、終ニ意ヲ決シテ百艱(かん)ヲ排シ」(山県有朋)ての断行であったという。これによって、町村制が施行された明治二十二年四月には、全国で七万余の町村が一挙に一万六、〇〇〇たらずに減少した。つまり、五万数千の町村がなくなる大規模な町村合併であった。
 ところで、政府は新町村をつくる基準について詳細な規則を設けることを避け、地方の状況にゆだねる方針をとったが(とらざるをえなかったが)、同二十一年六月におおまかな基準を一度示していた(内務大臣訓令第三五二号)。それによると、相当の資力なく独立自治の目的を達することのできない町村は、およそ三〇〇戸ないし五〇〇戸を標準に合併を行うことを命じ、また連合戸長所轄区域が地形・民情に支障ないときはそのまま合併してよしとした。
 滋賀県では、多くの府県と同様に内務大臣訓令の一年前の明治二十年七月ごろから、県令の命を受けて郡長が極秘のうちに町村合併の予備調査を進めていた(『滋賀県市町村沿革史』第一巻)。このとき作成された「町村区画取調」通りには進捗しなかったが、「不得止(やむをえざる)事故アルノ外、従前ノ戸長役場部内ヲ容易ニ分合セス」、また「一般人民ニ諮詢セサル」という強硬な方針(県訓令第八八号、明治二十一年八月)で郡や県が指導した結果、同二十二年二月下旬にはほぼ完了した(『滋賀県沿革誌』)。最終的に確定した同年四月において、滋賀県は一、六七五町村から一九五町村に、甲賀郡では一二四町村が二五町村に減少した。
 石部村およびその周辺での合併過程をみてみよう。甲賀郡でも新しくつくられた二五ケ村の多くは、合併過程で地形・人情、隣保団結の習慣、水利あるいは生活慣習等々をめぐって紛糾を重ねた。『滋賀県市町村沿革史』を通観すると、曲折なく合併が行われたのは、いずれも信楽郷にあたる四ケ村(雲井村・長野村・小原村・朝宮村)にすぎず、また連合戸長役場所轄区域をそのまま継承して一村となったのは、石部村はじめ一〇ケ村であった(県下では一九五町村中一〇四町村)。
 石部村においても、石部・東寺・西寺の三村による合併案のほかに、水利の関係から東隣の柑子袋村(明治二十二年の合併で三雲村に編入。甲西町)をも加える考えがこのときからあったようである。甲賀郡長が「村吏並各村重立チタル者」に対して行った諮問に、石部村連合戸長三大寺専治は、明治二十一年八月次のように答申していた(同、第六巻)。
 甲賀郡石部村外二ケ村答申書
一、町村制御施行ニ付新村ノ造成ハ現在戸長役場所轄区域三ケ村ヲ以テ自治ノ団体ト為シ差閊(さしつかえ)ナカルベシ、最モ地形ハ一村ノ形況自ラ備(そなわ)リ人情能ク適合スレバ前顕ノ如ク連合区域ヲ其儘新村ヲ組織セラレ可然(しかる)相考候。

  但隣村柑子袋村ヲ編入セラレテモ亦差閊ナカルベシ。
一、村名ハ石部村ニテ宜シカルベシ。
一、村役場位置ハ現今戸長役場(石部村ニアリ)ヲ其儘適用シテ差閊ナシ。
一、共有山ハ現今部内ノ外他ニ関係ナシ。
一、学区ハ現今部内一学区タリ、因テ新村ヲ一区域トシ宜シカルベシ。
一、用水路ハ現今他部内ニテハ柑子袋村ニ関係アル而已(のみ)ナリ。

右之通リ答申仕候也。

 また、ちょうど同じころ、三雲村ほか五ケ村(柑子袋・平松・針・夏見・吉永、以上甲西町)では、ひとつの合併案として東寺・西寺・柑子袋・平松・針で一村、三雲・夏見・吉永で一村をつくって、石部村は単独で町村制へ移行することが考えられていたという(同上、第二巻、第六巻)。その後の経緯について詳しいことはわからないが、昭和十六年(一九四一)から推し進められたいわゆる「強制合併」のときも、石部村は三雲村の一部と合併することが県の計画に上っていた。さらに甲西町との合併については、戦後も継続した懸案であった(第五章第一節)。
 明治二十二年四月、新しく誕生した石部村は、現住人口三、六七八人、戸数七一一戸で、甲賀郡二五村中それぞれ七位と六位に位置していた。