石部村ハ東海道中ノ一駅ニシテ古来石部町ト呼称シ……其大字石部ハ民家整然相連ネ、住民ノ多クハ商工ヲ以テ常業トシ、市街ノ体裁亦頗ル見ルヘキモノアリ、維新後郵便電信局・警察分署・公立学校・関西鉄道停車場、其他銀行会社支店等ノ設置アリテ、附近村落ノ要衝ノ地トシテ、将来益繁盛ノ域ニ達スルノ趨勢ナルニ依リ、町ニ改メントス。
町制施行は甲賀郡では水口町についで二番目、県下では一二番目とかなり早い方であった。石部町となった明治三十六年六月一日には、全町民あげてこれを記念するため休業とし、国旗を掲揚した(写166)。
写166 石部村村長より町制施行についての通達(『西寺地区共有文書』)
また、町制施行後二週間を経た同年六月十五日の行政文書には、もろもろの税金の税率が上げられるのではないかという、増税の噂が町中に流れたことが記されている。事実、営業税などがわずかながら増税されたようであるが、多くの町民には増税の影響がないので、その旨、各組内へ通知するよう指示が出された(『西寺地区共有文書』)。
町制と村制は法律上は同じ取り扱いであったが、しかし、町制への移行は石部におけるいわゆる町おこし運動(地方改良運動)を推し進める契機となったことは疑いないであろう。明治四十年代に入ると、武田憲治郎町長の下で二〇〇頁をこえる『石部町是』が編まれ、将来にむけての産業発展の方策が具体的に定められたのも、そのひとつの表れであったと理解できよう。