氏名 | 選出年月 | 備考 |
---|---|---|
井上敬之助 | ||
〃 44年9月 | 大正4年3月辞職 | |
武田憲治郎 | 〃 41年11月 | 補欠当選 |
山本岩三郎 | ||
〃 12年9月 | 大正15年6月辞職 |
第二次世界大戦前においては、自由党系政党と立憲改進党系政党が長く対抗するが(図47)、滋賀県でも明治二十七年(一八九四)三月と九月に施行された第三回・第四回衆議院議員選挙のころから、両者の対抗関係が本格化していく。第三回選挙の際滋賀県第二区(甲賀・栗太・野洲郡)では、自由党が岡田逸治郎を擁立し、甲賀郡を基盤とする前議員林田騰九郎と激突した。林田は、かつて改進党系政社といわれる近江同致会の創立式(明治二十二年四月)に出席したことがあり、前議会においても改進党に近い立場で活動していた。このような中で、自由党の甲賀郡内での選挙活動には多大な困難をともなったようである。『立憲政友会滋賀県支部党誌』は、次のエピソードを記述している。
図47 自由党系政党と立憲改連党系政党の系統図
(明治~昭和初期)
自由党は、水口町において演説会を開催しようとしたが、反対派の妨害のため会場を求められず困惑していた。その時旅館丸金楼の主人が、会場の提供を申し出て、ようやく開催にこぎつけた。しかし、演説会当日反対派の偽電報によって党首板垣退助が来訪できず、他の弁士の演説後事情を説明して明日は必ず板垣が来ることを聴衆に確約した。ところが、翌日反対派が水口駅の人力車を全部借り上げたため、板垣はやむなく草津駅から差し廻しの人力車で来場し演説を行った、というものである。
激しい選挙戦の結果、岡田逸治郎は、甲賀郡内で約二〇〇票を獲得、二区全体では一、九七七票となり、一、九三九票の林田騰九郎を大接戦の末破って当選を果した(『滋賀県議会史』第二巻)。
また、明治三十一年の第五回衆議院議員選挙でも、自由党の片岡久一郎と進歩党(改進党の後身)の鵜飼退蔵が激突、片岡が勝利を収めた。その際石部村の井上敬之助・小島元雄・林甚吉らの多大な尽力があったと、『立憲政友会滋賀県支部党誌』は記している。
このような流れの中で、当初改進党系の強かった甲賀郡においても、徐々に自由党系の勢力が増大し、後年になると立憲政友会(自由党の後身)の井上敬之助と立憲国民党(改進党の後身)の望月長夫が対抗するようになった。大正二年(一九一三)六月滋賀県内を遊説した犬養毅(いぬかいつよし)は、次のように述べている(『大阪朝日新聞京都附録』大正二年六月二十九日号)。
滋賀県に於ける政党熱の最も旺盛なは当甲賀郡である。現に国民党の棟梁の望月長夫、政友派の親分井上敬之助の二君が共に本郡より出でて雌雄を争ひ、一郡会議員の選挙にも県会議長(井上敬之助―筆者注)自ら出馬して采配を振るといふ熱心さに、其の猛烈の光景を想望することが出来る(下略)。
この中で、井上敬之助の出身地であった石部町は、岩根(甲西町)、柏木・貴生川・北杣(以上水口町)、南杣(甲南町)、雲井・長野(以上 信楽町)の各村とともに、政友会の強固な地盤となっていた。なお、国民党の地盤は、三雲・下田(以上 甲西町)、土山(土山町)、大原・油田(以上 甲賀町)の各村であった(『大阪朝日新聞京都附録』大正五年九月十九日号)。