地方改良運動

610 ~ 611ページ
明治三十七年(一九〇四)に起こった日露戦争は、巨額の戦費を要し、各種の税の新設や増徴など民衆に多大な負担を強いた。しかも戦争終了後も軍備拡張政策が推し進められたため、民衆の負担は軽減されず、町村財政は町村税滞納者や町内債の増加によって危機的状況に陥った。また、当時期日本の資本主義の発達にともない貧富の差が拡大し、労働運動が広がり始め、社会主義政党の結成もみられるようになった。このような中で政府は、町村の国家主義的再編成を目指して、地方改良運動を実施したのである。
 地方改良運動は、明治四十一年(一九〇八)の戊申(ぼしん)詔書の発布を契機に、部落有財産の統一・青年会の組織化・農事改良・神社合祀政策の実施など広範囲にわたって強力に進められた。このうち部落有財産の統一とは、土地を中心とする各大字の所有財産を町村に移して、町村財源の強化を図ろうとする政策であった。甲賀郡役所は、明治四十二年(一九〇九)二月「各部落トモ其財産ノ多寡ヲ問ハス、総テ全部町村ヘ寄附スルコトハ希望スル所ナルモ、事実行ハレ難シト認ム」として、統一整理方法内規を決めている(『地方改良運動史資料集成』第五巻)。しかし、部落有財産の統一は、甲賀郡役所が指摘したように、容易に進まなかった。大正二年において滋賀県内で部落有財産を所有する一八七町村のうち、二八町村で全部統一が完了し、三六町村で一部統一が行われたにすぎない。ちなみに甲賀郡では、部落有財産所有する二三町全部統一済・一部統一済ともに六町村ずつとなっている(『滋賀県市町村沿革史』第一巻)。
 地方改良運動は、明治四十年代に入って急に始められたものではなかった。その先駆のひとつとして、町村是(ぜ)制定運動があげられる。滋賀県内でも明治三十五年ごろから、町村是を定める町村が現れるようになった。運動の主体が農会であったため、農業を中心とする諸産業の改善あるいは奨励策に主眼が置かれ、風俗改良などの問題は付随的なものになっているが、根底を流れる発想は地方改良運動と同じである。当時期の農村社会の現状に不安を抱く地主層は、自主的に町村是制定運動に取り組んだ。また、町村行政を補強するために、各種団体や組織の設立が図られ、その活動を各大字がもつ共同体的強制力で保障しようとする一方、農村社会における階級対立、資本主義経済の浸透を前提とした規約が見られることが一般的特徴である。