石部町是

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このような中で、石部町でも町是制定の動きが本格化するようになった。『山本重夫家文書』の中に、明治三十七年一月二十八日付で、町書記山本岩三郎が町是調査主任に任命された辞令が見られる。一方『石部町史』は、同四十一年二月ごろ町是調査会が設けられたと記述している。現在のところ双方の時期的な関連について断定する史料はないが、前者は予備調査あるいは資料集めなどにあたったとも考えられる。調査は過去一〇年ぐらいのあらゆる資料をもとにして行われ、同四十三年(一九一〇)七月に完了、同年十二月一日から実施された。次に内容を具体的に見てみよう。
 前文に町是制定の理由として、次の二点があげられている。まず、江戸時代東海道の宿場町として栄えていた石部町が、同二十二年の鉄道開通によって大打撃を受け、衰退の途をたどりはじめたことが指摘されている。続いて、寄生地主制の発達に伴って、「地主ト小作人トノ間往々円滑ヲ欠キ、紛擾(ふんじよう)ヲ招クコトアリテ、農事改良ノ如キ遅々タル程度」となった上、「都市工業ノ勃興」のため「本町民ノ他府県ヘ移住スルモノ年一年ヨリ加ハリ、今ヤ一千四百有余名ノ多キニ達シ」た点も強調されている。また、『石部町是』の制定は、明治三十六年(一九〇三)に村是を定め、着実な実績をあげつつあった伴谷村(水口町)の事例に強い刺激を受けたものともいえるであろう。

写170 石部町是

 『石部町是』の本文は二八章より成るが、うち二七章までを職業・土地・戸口・財産・教育・生産・消費などの詳細な現状分折にあてている。その上で、「本町百年ノ大計ヲ建ツル」とされた方針は、以下の通りである。
 (1)農業を主とし、商工業を副とする産業政策の推進。
 (2)農業に関しては、養蚕・養鶏・畜牛・果樹栽培など経営の多角化をはかるとともに、種子の改良に努力する。緑肥や堆肥を奨励する。耕地整理を実施する。
 (3)小作人の保護に重点を置き、流出を防ぐ。
 (4)石部町商工会を結成して、商業の回復をはかる。
 (5)町民に、風俗矯正・勤倹貯蓄に努めるよう指導する。
 (6)部落有財産を統一し、町基本財産を造成する。
 (7)松籟山町営公園を拡張・整備して、観光客を誘致する。
 (8)青年会の統一。
 (9)学校基本財産の増殖。

 右の項目のうち、(4)に関しては、明治四十三年三月に創設された修道会の活動を通じて行うとされている。修道会は八石(はっこく)教会所長を総裁とし、幕末期の農民指導者大原幽学が提唱・実践した性学を基本とする勤倹思想の普及を目的にしていた。(6)の部落有財産の統一では、同四十五年までに第一期の統一を完了すると定めている。だが、翌大正二年においても、統一は準備中の段階であった。(8)は「社会ノ風紀ヲ維持シ、文運ノ進歩ニ後(おく)レズ、進ンデ共同ノ精神ヲ養ヒ、国民的訓練ヲ加ヘントセバ、一町村一団ノ青年会ヲ設立スル」必要ありとの判断から、石部町青年会を設立しようとする措置であった。なお、従来青年会は、大字東寺と大字西寺にのみ存在し、大字石部には学習会が設けられていた。会則案によると石部町青年会は、石部尋常高等小学校に事務局を置き、各大字には支部が設置されることになっていた。石部町在住の十五歳以上二十五歳以下の男子全員を正会員とし、「名望家ニシテ、本会ニ対シ特ニ稗益ヲ与フル人士」を特別会員に推薦すると定められている。また、総裁は町長が、会長は尋常高等小学校長が兼任する予定であった。
 こうした『町是』に示された諸措置の実施によって、石部町は、町歳入額がこれまでの一九万三、七〇〇円余から、一〇年後には二二万一、〇〇〇円余に増加することを期待していた。