井上の略歴

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明治後半期から昭和初期にかけての滋賀県の政治史を語る上で、忘れることのできない人物に井上敬之助がいる。井上は、慶応元年(一八六五)三月石部宿本陣小島金左衛門の八男として生まれ、幼名を家之助と称した。明治三年(一八七〇)に医師であり石灰製造所を経営していた井上敬祐の養子となり、同二十年(一八八七)には敬之助と改名している。
 政治家への道を歩みはじめたのは、同二十年に元大津自由党の創設者の一人であった酒井有(さかいゆう)の紹介で、自由党系の活動に参加したのが契機だったようである。同二十三年(一八九〇)板垣退助が愛国公党を再興すると、「井上は同志とともに、特に県下の青壮年層に呼びかけて同党の主義綱領を宣伝」したといわれている(木村緑生編著『井上敬之助』)。同年七月の第一回衆議院議員選挙では、滋賀県第二区(甲賀・栗太・野洲郡)において酒井有を擁立し戦った。しかし、酒井はわずか一九四票しか得票できず、落選している(『滋賀県議会史』第二巻)。
 その後明治三十一年六月に、日本で最初の政党内閣である第一次大隈(おおくま)重信内閣(隈板(わいはん)内閣)成立の際、自由党と進歩党(立憲改進党の後身)が合流し憲政党が結成されると、井上敬之助は滋賀支部常議員に就任している。憲政党滋賀支部は、発足にあたって、知事公選制および地価修正の実現を政治目標に掲げた。滋賀県は地租改正の時に地価を高く算定された地域であったため、特に地価修正を求める動きには根強いものがあった。井上もこの動きの中で、積極的に活動したと思われる。ところが、第一次大隈内閣は内部対立によってわずか四ヶ月で瓦解、憲政党も旧自由党系の憲政党と旧進歩党系の憲政本党に分裂した。さらに、憲政党は明治三十三年(一九〇〇)九月立憲政友会(総裁伊藤博文)と改称した。井上は政友会滋賀県支部の結成に多大な尽力をしたといわれている。

写171 「革正」井上敬之助追悼号
昭和2年刊行。巻末には、立憲政友会総裁の田中義一、同会長老高橋是清・犬養毅らの追悼の意を表わす署名が連ねられている(山本重夫氏所蔵)。

 このような中で、井上敬之助は、前掲表73に示したように、明治二十五年(一八九二)三月県会議員に初当選以来、合計五回の当選を果たした。同三十一年九月には県参事会員となり、同四十四年(一九一一)十月には県会議長となっている。他に石部村会議員、甲賀郡会議員、甲賀銀行取締なども務めた。
 さらに、井上は表74に掲げたように、第七回衆議院議員選挙(明治三十五年八月)で初当選してから、合計六回衆議院議員となっている。なお、第九回選挙(明治三十七年三月)から第一一回選挙(明治四十五年五月)において立候補を見合せたのは、明治三十六年の県会議員選挙の際、石部町の武田憲治郎を当選させるために代理投票を教唆したとの容疑で係争中であったからである。衆議院議員在職中、立憲政友会本部総務および同筆頭総務、代議士会長(第五三帝国議会時)などを歴任した。また、大正二年十一月から昭和二年(一九二七)八月死去するまで、滋賀県支部長を勤めている。滋賀県では従来から憲政本党およびその後身の立憲国民党の力が優勢であったが、井上は県支部長就任直後より政友会の党勢拡大につとめた。その結果大正八年(一九一九)・同十二年の県会議員選挙において、政友会が多数を制するようになった。大正八年四月政友会色の強い堀田義次郎知事が着任すると、井上の勢力は一層増大し、「滋賀県には二人の知事がいる」といわれるほどであった。