憲政擁護運動と井上敬之助

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憲政擁護運動とは、大正初期に展開された、藩閥や官僚の専横を打破し政党政治を確立しようとする運動で、第一次護憲運動とも呼ばれる。運動の発端は、大正元年(一九一二)十二月に第二次西園寺公望(さいおんじきんもち)内閣が二個師団増設問題で陸軍と対立、総辞職を余儀なくされたことにあった。後継首相は長州閥・陸軍閥の元老桂太郎で、三度目の組閣であった。こうした中で、まず立憲政友会が、桂内閣や陸軍を激しく追求する運動を展開しはじめ、立憲国民党や世論も同調するようになった。同年十二月十九日東京で、政友会・国民党主催の憲政擁護連合大会が開かれて、多くの聴衆を集めた。以後憲政擁護運動は、急速に全国へ拡大していく。
第7回選挙(明治35年8月10日)
選挙区定数氏名得票所属党派
郡部5○望月長夫4,361憲政本党
○井上敬之助3,874立憲政友会
○沢田耕治郎3,608憲政本党
○布施孫一郎2,280立憲政友会
○大東義徹3,157同志倶楽部
 島田保之助2,835立憲政友会
 伊夫伎資弼2,684憲政本党
 松宮尚二郎641立憲政友会
 その他200

第8回選挙(明治36年3月1日)
選挙区定数氏名得票所属党派
郡部5○伊夫伎資弼4,038憲政本党
○沢田耕治郎3,992 〃 
○望月長夫3,853 〃 
○浅見竹太郎3,820 〃 
○井上敬之助3,296立憲政友会
 清水友三郎2,778 〃 
 高瀬量1,548
その他260

第12回選挙(大正4年3月25日)
選挙区定数氏名得票所属党派
郡部5○西田庄助6,670大隈侯後援会
○藤井善助5,437立憲国民党
○島田保之助5,339中正会
○望月長夫5,073立憲国民党
○井上敬之助4,562立憲政友会
 高橋政右衛門3,808 〃 
 柴田源左衛門3,753立憲国民党
その他55

第13回選挙(大正6年4月20日)
選挙区定数氏名得票所属党派
郡部5○藤井善助6,318立憲国民党
○吉田羊治郎5,743無所属
○中村喜平5,422立憲政友会
○望月長夫5,358立憲国民党
○井上敬之助4,784立憲政友会
 島田保之助4,368憲政会
 堀部久太郎723
その他27

第14回選挙(大正9年5月15日)
選挙区定数氏名得票所属党派
第3区1○井上敬之助7,885立憲政友会
 清水銀蔵6,118立憲国民党
その他2

第15回選挙(大正13年5月10日)
選挙区定数氏名得票所属党派
第3区1○井上敬之助7,452立憲政友会
 清水銀蔵6,828革新倶楽部
その他40
○印は当選者
大正8年の選挙法改正により第14回選挙から小選挙区制となる 『滋賀県議会史』第2巻、第3巻より作成
表74 井上敬之助関係衆議院選挙結果

 滋賀県では大正二年一月十一日、大津で憲政擁護県民大会が、県下各地の町村長や郡会議員など多数の参加者を得て開かれた。当時県会議長だった井上敬之助は、大会の座長として運営にあたった(『大阪朝日新聞京都附録』大正二年一月十二日号)。続いて、一月十三日甲賀郡寺庄村(甲南町)の大藤館で国民党有志による演説会が開かれ、一月二十九日には水口町鹿深(かふか)館で政友会滋賀県支部が演説会を開催している(『同前』大正二年一月十五日号・二十九日号)。甲賀郡において、二つの演説会が相次いで開かれたのは、前述したように同郡が滋賀県内で「政党熱の最も旺盛な」地域であったためと思われる。このような中で、二月一日に政友会滋賀県支部は、憲政擁護を求める請願書を大正天皇に提出した。請願書は、「草莽ノ臣井上敬之助等」という言葉で書き始められている(『井上敬之助』前掲)。
 憲政擁護運動が全国的に盛り上がる中で、第三次桂太郎内閣は大正二年二月十日総辞職し、代わって薩摩閥・海軍閥の山本権兵衛が首相となった。その際政友会は、これまでの方針を一転させて山本内閣に協力する姿勢をとったため、尾崎行雄らは脱党し、政友倶楽部を結成した。余波は滋賀県にも及ぶことになる。
 大正二年三月十二日立憲政友会滋賀県支部は総会を開いて解散を決議、大部分の党員は脱党して滋賀県政友倶楽部を結成した。井上敬之助は、三月四日に来県した尾崎行雄と会談して、最終的に脱党の意志を固めている(『大阪朝日新聞京都附録』大正二年三月六日号)。しかし、井上の考えは、「此の際脱党して一面には山本内閣を戒飭(かいちよく)し、一面政友会の無能を覚醒せしめたらば、其の方が憲政の発達に有力ならんと信ず」というものであり(『同前』大正二年三月十四日号)、尾崎らの行動とは一線を画していた。また、滋賀県政友倶楽部の名前では、国民党の党勢に対抗できないとの事情もあった。そこで、井上らは政友会本部からの誘いもあって、同年十一月一日に復党している。
 ところが、政友会滋賀県支部が再出発したばかりの同三年(一九一四)一月、山本内閣は海軍の汚職事件であるシーメンス事件によって総辞職した。井上は同事件の追求に慎重な態度を表明している(『同前』大正三年二月七日号)。また、当時活発に展開された廃税運動に対しても、政友会県支部の姿勢は、国民党などに比べると相対的に及び腰であった。廃税運動とは、日露戦争時に新設あるいは増徴され、以後永久税化された地租や営業税等の軽減を求める運動であった。山本内閣は発足当初減税の方針を打ち出したにもかかわらず、実行しなかったため、廃税運動は全国的な広がりを見せていた。
 こうした中で、井上敬之助は、大正四年(一九一五)三月の第一二回衆議院議員選挙に出馬することになった。政友会県支部は、当初甲賀・栗太・野洲郡を地盤とする候補者として、井上か前代議士吉田虎之助のどちらを出馬させるか決めかねていた。一時は吉田に決まりかけたが、地元栗太郡での不人気が伝えられたため、結局甲賀郡を中心に強い地盤をもち、かつ県会議長在任時にその力量を高く評価された井上に落ち着いたのである。選挙戦では甲賀郡における井上と国民党の望月長夫の戦いが、「県内第一の見物」といわれて大きな注目を集めた(『同前』大正四年三月十一日号)。望月は、三雲村(甲西町)に生まれ、のち旧水口藩士望月家の養子となり、弁護士を開業、過去三回衆議院議員に当選していた。甲賀郡内の政友会員は、三月三日に水口町鹿深館に集まり、井上の選挙活動に関して協議している(『同前』大正四年三月四日号)。井上と望月は、ともに水口町に郡内選挙本部を、石部町など主要地に支部を設けて激しく争った。
 開票の結果、甲賀郡内の得票は望月長夫一、七三九票、井上敬之助一、六〇三票となり、他候補の最高得票は一八一票にすぎなかった。同郡内における井上と望月の地盤の強さ、選挙戦の激しさがうかがわれる。だが、選挙区全体では、前掲表74に示したように、望月五、〇七三票、井上四、五六二票で、井上は最下位当選であった。『大阪朝日新聞京都附録』大正四年三月二十九日号は、「井上敬之助氏は慥(たしか)に地方政客中の傑出せるものである。其の人の威望を以てして、尚且(なおかつ)此の際(きわ)どき当選は政友会が如何に民望を失っているかを立證するもの」と報じている。この選挙で政友会は、県内選出議員数を前回の二人から一人に減少させたが、復党問題をめぐる紛糾や廃税問題などに対する及び腰的な態度が批判を受けたためであろう。