その後政友会滋賀県支部は、支部長井上敬之助の敏腕によって、国民党の県内有力者多数を入党させるなど、着実に勢力を盛り返していった。大正七年(一九一八)政友会総裁原敬(はらたかし)が組閣すると、県内の党勢は一段と強化され、翌年の県会議員選挙において議員定数三〇人のうち一一人を占めて、ついに第一党となった。さらに、大正十二年には二四人を当選させて、県会の絶対多数を制するに至っている。政友会の党勢拡大は、県内各地からの陳情を受けて県に多くの土木事業をすすめるのと引換えに、票田を獲得していくという方法によるものであった。しかし、こうした県当局と一体になった党勢拡大方法は、他党から厳しい批判を受けることになる。
当時納税額などによる制限を設けることなく、すべての成年男子に選挙権を与えるべきだとする普通選挙運動(普選運動)が、全国的な広がりを見せていた。しかし、政友会は普選の実現には消極的であった。一方憲政会や国民党は、政友会に対抗する意味もあって、普選運動を強力に推進した。滋賀県でも憲政会県支部を中心に県政革新団が組織され、普選の実現と政友会の意向に忠実な県政運営の打破をめざして、演説会を各地で開催している。特に、井上敬之助には、「普通選挙の反対者であり県政紊乱(びんらん)した」張本人として、一層激しい批判があびせられた(『大阪朝日新聞京都附録』大正九年三月六日号)。
そこで、原内閣は、普選運動の高揚を抑えるために、選挙制度を多数党に有利な小選挙区制に変更した上で、大正九年(一九二〇)二月衆議院を解散した。滋賀県では選挙にあたって、憲政会と国民党の提携が成り、政友会に対抗した。中でも井上敬之助が出馬した第三区(甲賀・栗太・野洲郡)では、国民党の有力者清水銀蔵が立候補し、大激戦となった。『大阪朝日新聞京都附録』大正九年四月二十七日号は、第三区全体の形勢としては井上六分、清水四分であるが、反井上勢力が「全然清水に味方するならば五分五分の形勢となり、甲賀郡に於ける両派の活動に勝敗は決せられる」と報じている。この中で、石部町は、雲井・長野・小原・朝宮・多羅尾(たらお)村(以上 信楽町)や北杣・貴生川(きぶかわ)村(以上水口町)とともに、当然のごとく井上支持で固まっていた。開票の結果は、前掲表74に示したように、井上敬之助七、八八五票、清水銀蔵六、一一八票で、井上が勝利を収めた。なお、政友会は、県内の六議席中五議席を占め、全国的にも圧勝している。
こうして普選運動は、一時期頓座を余儀なくされた。だが、絶対多数を誇った政友会には、大正十年(一九二一)の原敬(はらたかし)首相暗殺後内紛が生じ、後継の高橋是清(これきよ)内閣も七ヶ月にして倒れた。その後加藤友三郎、山本権兵衛、清浦奎吾(きようらけいご)といった官僚内閣が続く中で、普選運動は再び活発になってくる。政友会は清浦内閣との提携方針をめぐって分裂、脱党派は政友本党を組織した。一方留党派は、憲政会・革新倶楽部(国民党の後身)とともに護憲三派連合を形成し、普選の実現をスローガンにして、時期尚早の立場をとる政友本党と対抗するようになった。
このような中で、大正十三年(一九二四)五月第一五回衆議院議員選挙が行われることになった。滋賀県第三区では、政友会の井上敬之助・革新倶楽部の清水銀蔵・政友本党の村上隆祐が立候補したが、事実上は前回と同じく井上と清水の一騎打ちとなった。井上は政友会分裂の際留党したが、元来彼の政治的立場は政友本党に近く、普選の実現に関してもあまり積極的でなかった。選挙においては井上が主に地盤固めを図ったのに対し、清水は「憲政擁護、普選実行」をスローガンに掲げて活発な言論戦を展開した。その数は、甲賀郡四七回、栗太郡三三回、野洲郡三一回に及んでいる(『大阪朝日新聞京都附録』大正十三年五月十日号)。開票の結果は前掲表74のように、井上七、四五二票、清水六、八二八票となり、再び井上が勝利を収めた。政友会は滋賀県内で四議席を獲得、全国的にも護憲三派連合が圧勝し、憲政会が第一党となった。選挙後憲政会総裁加藤高明(たかあき)を首班とする内閣が成立し、翌大正十四年(一九二五)には普通選挙法が制定されて、普選はようやく実現したのである。