小学校令と校名の改称

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同十八年十二月に内閣制度が創設され、初代文部大臣森有礼により学制が改革され、翌年帝国大学令・師範学校令・中学校令・小学校令が公布された。これにより小学校は尋常・高等の二段階に編成され、尋常科は義務教育とした。尋常小学校および高等小学校の修業年限をともに四年とし、それぞれの学科と授業時数・授業要旨を定めた。また、学校経費の財源として授業料が徴集されたが、一方では貧困な地方のために小学簡易科の設置を認め、授業料も徴集しないこととした。小学簡易科にあっては別に要領を定め、修業年限は三年以内、毎日の授業時数を二時間以上三時間以内と定めている。なお教科書は、小学校令後は検定制度をとった。同年九月、学区が改正され、石部村尋常科(石部村・東寺村・西寺村)、石部村簡易科(石部村)、西寺村簡易科(東寺村・西寺村)となった。詳議学校はこの年の十一月に廃し、代って簡易科阿星小学校を開校し、石部村石部小学校の管理に属した。
 同二十年(一八八七)小学校令にのっとり、石部小学校は四年制の小学校となり、校名を尋常科石部小学校と改称、同年十一月には簡易科阿星小学校を廃し尋常科石部小学校の支校とした。
 同二十一年二月、簡易科石部小学校が開校、登町(字谷町)にあった石部村の旧米倉を修繕して校舎とした。教室は一室、学年の程度は一年より三年位まで、生徒数およそ五〇人、教員は奥田親富であった。
 同二十二年四月一日、町村制施行とともに学区は一町村一学区となり、旧村名は大字名として残り、石部村大字石部・大字東寺・大字西寺にかわり、戸長が村長にかわった。同年十一月、簡易科石部小学校を廃し尋常科石部小学校に合併。生徒は相当級に編入した。訓導畑中八太郎は支校勤務となった。