新小学校令の目的は第一条に掲げられ「小学校ハ児童身体ノ発達ニ留意シテ道徳教育及国民教育ノ基礎並其生活ニ必須ナル普通ノ知識技能ヲ授クルヲ以テ本旨トス」と定められた。これは国民学校に至るまで約五〇年間にわたり小学校教育の目的を示す規定として続いた。尋常小学校を三年または四年とし、小学校簡易科を廃止した。義務教育は三年の尋常小学校終了までとなった。高等小学校は二年・三年・四年の三種類とし、小学校には補習科・専修科を置くことができ、徒弟学校・実業補習学校を小学校の種類とした。
同二十三年十月三十日、教育に関する勅語が発布された。国民道徳及び国民教育の基本が示され、その後の学校教育ならびに国民教育に大きな影響を与えた。また教育勅語謄本が各学校に下賜され、学校では奉読式が行われた。石部小学校では同年十一月十七日、教育勅語奉読式が挙行され、甲賀郡役所書記・警察分署長・村長・村会議員そのほか有志者多数臨席した。
写173 教育勅語 戦前の教育の根本方針を示した明治天皇の勅語。明治23年(1890)10月30日発布。全国の学校へ配布し、礼拝・奉読が強制され、明治以来学校教育の基本的拠り所とされた。
同二十四年六月には小学校祝日・大祭日儀式規定ができ、同年八月には、避暑のため初めて夏季休業が実施された。同年十一月には「小学校教則大綱」が制定され、修身は教育勅語に示された徳目を中心として編さんされた。
同二十五年二月三日、高等科石部小学校を創設し、二月七日には開校式を挙行、石部小学校に併置した。同年六月、尋常小学校の支校を廃し、同所に阿星尋常高等小学校を開校した。
同年九月十日、石部小学校は石部尋常高等小学校と改称した。高等科は近隣諸村が未設置のため、野洲郡三上村大字南桜・北桜、栗太郡金勝村東坂・井上・御園・荒張・観音寺、甲賀郡三雲村大字夏見・針・平松・柑子袋、岩根村大字正福寺・菩提寺の尋常小学校終了の児童は同科に入学してきた。なおこれら近隣諸村から通学していた高等科の生徒はそれぞれの村の小学校に高等科が併置されると石部尋常高等小学校から転校した。例えば同三十年(一八九七)四月より野洲小学校に高等科ができたので、三上村からの通学生はこの年をもって転校した。また金勝村からの通学生は同三十三年四月、三雲村からの通学生は同四十一年(一九〇八)四月、岩根村からの通学生は同四十三年四月以降はそれぞれの村の高等小学校に通学した。
写174 尋常高等小学校卒業証書 石部小学校は明治25年(1892)9月、石部尋常高等小学校と改称した。各学年を修了するごとに修業証書が与えられ最終学年を終了すると卒業証書が授与された(石部町歴史民俗資料館所蔵)。
同二十六年(一八九三)三月、明治天皇・皇后の「御真影」が、同年十一月二日、阿星尋常小学校にも両陛下の「御真影」が下賜された。阿星尋常小学校では拝戴式終了後、長寿寺で祝宴を開き、愛宕山で花火を打上げ、軽気球を飛揚させるなど、詳議学校開校以来未曽有のにぎわいであった。
同二十八年六月八日、石部尋常小学校級長設置規則が定められた。尋常一年を除き、各級に級長・副級長が選ばれ、受持訓導の伝達や整列点呼などの号令をかけた。また、同三十年四月一日、尋常科四年以上、高等科五〇人が四日間の予定で大阪市へ修学旅行をしたが、これは石部小学校の修学旅行の始まりである。翌年三月三十一日、高等科男子四〇人が校長、担任付き添いで尾張・伊勢方面へ修学旅行、さらに翌々明治三十二年八月四日、尋常科四年以上高等科男女二〇人が三日間の予定で大津・宇治・奈良へ旅行をした。
また同年十月十九日、三雲村夏見由良谷川の河原(現三雲小学校運動場)で近隣五校の連合運動会が行われた。これは最初の連合運動会であり、石部尋常高等小学校として運動会参加の始まりである。