国民学校令第一条には「国民学校ハ皇国ノ道ニ則リテ初等普通教育ヲ施シ国民ノ基礎的錬成ヲ目的トス」と定め、初等科六年、高等科二年の八ケ年を義務教育とし、同十九年から実施を予定していたが、戦局激化のためその実現をみないまま終戦を迎えた。
国民学校は小学校令時代の教科編成を大きく変革し、国民科(修身・国語・国史・地理)、理数科(算数・理科)、体練科(体操・武道)芸能科(音楽・図画・工作・裁縫)、家事(高等科女子)、実業科(農業・工業・商業または水産業)を設けた。
国民学校への改称の基本理念にいう皇国民の練成にそって、同十七年二月二日、耐寒心身鍛練運動に参加し、神社参拝駈足を実施した。
同年八月十二日、アメリカ軍機が本土に来襲、警戒警報が発令され石部町にサイレンが鳴りひびいた。児童は防空頭巾(ずきん)をかぶって登校したりするようになる。同年十月から十一月にかけて、児童もまた国策にそって食糧増産の労働に参加して食糧補給につとめたり、割木運搬などの奉仕作業をした。
同十八年になって、校庭は野菜園やいも畑に一変し、高学年には食糧増産のための生産教育が課せられ、教室での勉強は少なくなっていた。日常生活に必要な学童ズック靴が学校において特別配給制となって自由に買えなくなり、統制経済下、日常生活必需物資は底をつきはじめた。同年六月、学徒戦時動員体制確立要綱が閣議で決定され、本土防衛のために軍事訓練と勤労動員の徹底がはかられ、十月、教育に関する戦時非常措置方策が出され、学生の戦事動員が一段と進められた。これらの動きの中で高等科第二学年は陸海軍少年兵や満蒙開拓青少年義勇軍の募集に応じたものもあった。
アメリカ軍の本土空襲が強まり、同十九年九月三日、学童集団疎開によって大阪市立立葉国民学校五・六年生が石部町に疎開し、青年学校裁縫室・石部天理教会・西福寺の三ケ所に分宿して学校へ通学した。
同二十年の正月、当時の町長井上昇のはからいにより、疎開児童が各家庭に数人ずつ預けられ、久しぶりに家庭の暖かい雰囲気に包まれるひとときがあった。
写180 学童の集団疎開 アメリカ軍の本土空襲が始まると、大阪などの都心の学童は集団疎開をするようになった。石部町は大阪市より学童疎開を受け入れた(石部小学校所蔵)。
同年十一月、米軍B29爆撃機が編隊で連日石部の一万メートル上空を通過するようになり、そのたびに児童は空襲警報とともに学校付近に設営された防空壕に避難する日が多くなり、防空頭布、モンペ姿で通学することが日常化した。昭和十九年八月二十三日勅令第五一八号で公布された学徒勤労令によって、高等科児童及び教職員は翌年四月から信楽の窯業工場へ軍用品製造のために動員された。