米や繭をはじめとした農産物価格は凶作や恐慌のために大幅に変動した。昭和五年、滋賀県下の米価は大正十四年(一九二五)のそれの半分に暴落した。また、生糸の輸出が大幅に減少したため、繭の価格も大きく下落した。農産物による収入は農作物栽培に必要な経費を下回り、昭和七年の農家負債は全国で約五五億円に達した。農村の困窮は著しく、東北地方では、娘の身売りが行われたり、欠食状態の児童が続出した。
斎藤実(まこと)内閣は窮迫した農村を救済するための方策を講じた。まず時局匡救(きょうきゅう)事業として、農民を土木関係の事業に雇用し、農家経済を好転させようとした。滋賀県では、同七年から同九年にかけて、時局匡救関係予算として四三万円余を計上し、土木事業にあてた。次に、自力更正運動計画は農業経営の改善・生活の合理化・貯蓄の推進を目的とするもので、県下で三〇ヶ村が選定され、積極的に運動が展開された。