社会運動の展開

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生活の困窮により、労働者や農民の社会運動が活発化した。労働者は賃金切り下げや労働強化を強いられ、失業者は増加し続け、同四年九月には、五〇万人を突破したのである。労働争議は同六年に戦前の最高となり、争議件数は全国で二、四五六件、参加人員も、一五万四、五二八人に達した。大手の繊維会社や工場を中心に長期間にわたる大規模な争議が起こった。その後、中小企業にも波及して、人員整理に対する反対運動などが深刻化した。
 滋賀県下でも、減給・休業・工場閉鎖が相ついだ。大津市の帝国製麻株式会社大津工場が閉鎖されたのをはじめ、数多くの工場が休業・閉鎖に追い込まれた。同四年十一月当時、県下の失業者総数は一、二五二人で、日雇労働者の失業者数も一、二〇五人に及び、県下の労働争議は頻発した。同三年から七年の旭絹織株式会社膳所工場、同五年の東洋レーヨン株式会社滋賀工場・近江帆布株式会社の労働争議は大規模で深刻なものであった。
 農村では、東北・北陸地方などで大規模な小作争議が発生し、同六年には、全国で三、四一九件に及んだ。主な要求内容は小作料の軽減や農地耕作権の確保などであった。滋賀県下では、昭和に入り小作争議は徐々に増加し、同七年には六三件となり、同九年には室戸台風の影響で二一四件と増大した。甲賀郡内でも、毎年、争議が起こったが、同九年から十年にかけて頻発し、二〇件に及んだ。

写182 大嘗祭への献納 昭和3年(1928)昭和天皇の即位後最初の新嘗祭のために、野洲町三上に悠紀斎田が決まり、石部町の小西治三郎は藁と牛旁を献納した(『大嘗祭悠紀斎田記念帖』山本重夫氏所蔵)。