以前から生活の諸側面のうち、とりわけ冠婚葬祭時のもてなしが華美で奢侈になっていた。当時、昭和恐慌下で、政府が緊縮政策をとっていたこともあり、これらの簡素化・簡略化を意図して、規約を各小字単位で制定したのである。同六年二月に谷町(たにまち)で取り決められた規約は葬式仏會ノ部九条、雑部二条の合計一一条から成り立っている。規約は葬式に関する規定が中心になっており、寺葬を前提とし花輪・盛物の禁止や、酒・食事などのもてなしの略式化を促している。当時の葬儀ではこの規約にあるような派手な贈答と接待が行われていたと逆に考えることができよう。雑部では町民の軍隊入退時における町内の饗応について規定している。
谷町では、この種の規約が明治三十四年(一九〇一)一月にも取り決められていた。これとの違いをもとに当時の生活をもう少し探ってみよう。夜伽(よとぎ)の際の饗応について、明治・昭和の規約ともに茶菓のみとし、酒飯を控えることを求めている。明治の規約でも同様に規定しているが、このことは昭和に入っても遵守されず、夜伽で酒飯が出されていたことを物語っている。葬式当日の出棺前の饗応や初七日の饗応は明治の規約で菓子椀と猪口汁(ちょこじる)の差出しを認めているが、昭和の規約では禁止している。これは明治の規約がある程度守られ、昭和になってさらに簡素化を進めるために強化されたとも受けとれる。あるいは、明治の規約以前から饗応が過度で、それを抑制するために段階的に一定の部分を認めたが、十分な効果がなく、全面的な禁止に及んだとも推測できる。そのほか、穴掘りや花拵(はなこしら)えの膳部提供、報恩講や年回忌などの饗応はいずれの規約も認めている。
さらに、町内から出征兵士が出た時の対応をみると、明治の規約では、出征兵士に対して町の名義で金一円を贈呈した。そして、酒肴を準備し、天神・愛宕神社内で宮籠(みやごもり)をし、祝宴を開いた後、石部駅まで送った。いずれにせよ、こうした規約を周知徹底することは困難であったかもしれないが、当時の町民のくらしぶりを垣間みることができよう。