当時、徴兵された者は増え続け、労働力が不足し、それに軍需優先の状況で国民の生活必需品も不足したのである。
労働力については同十四年国家総動員法による国民徴用令(勅令)が施行され民需産業に従事する労働者を軍需産業へ徴用することができるようにした。その後、学徒や未婚女性・朝鮮人などが軍需産業に強制的に従事させられた。その数は終戦時に六〇〇万人に及んだ。
生活必需品の統制をみると、同十三年に綿糸やガソリンの切符制が、翌十四年には米穀の配給制が確立され、パーマネントも廃止された。さらに同十五年には砂糖やマッチ、木炭も切符制になり、国民服が制定された。さらにダンスホールも閉鎖されたのである。また、消費節約のため、いわゆる「日の丸弁当」がすすめられた。このように国民生活は少しずつ窮屈な状況に追い込まれることになったのである。
同十二年九月、国民精神総動員実施要綱が示され、滋賀県下でも実行委員会が組織され、「挙国一致」・「一億一心」・「戦争完遂」といったスローガンを掲げて講演会や映画会などが行われた。
同七年から農業開拓移民の送り出しが国策として行われた。いわゆる満州開拓青少年義友軍であり、同十三年から本格的に開始され、滋賀県では八三二人が送り出された。これは主に蒲生郡や甲賀郡の農家の次男・三男によって占められていた。