県内の産業は原材料の配給制により深刻な影響を受けるようになった。太平洋戦争に突入すると、軍需産業に転換を余儀なくされた。同十七年の企業整備令によりさらに軍需転換が促進され、県下の大津や彦根、長浜にあった大手の繊維工場も転換を余儀なくされた。
そのほか、国家総動員法にもとづいた勅令が数多く発令され、「ぜいたくは敵だ」・「欲しがりません勝つまでは」といったスローガンのもとに、国民の生活は厳しくきりつめられた。徴用と軍需産業への動員のために農村労働力が減少したり、農機具や肥料が欠乏したことなどが、日用品や食料品の絶対的な不足の原因となった。このため、国家統制による配給制度が実施された。この配給は大政翼賛会の末端組織の隣組から行われ、隣組に加入することで、配給を受けると同時に戦争遂行に協力することが強いられた。
同十六年四月に、生活必需物資統制令が公布され、六大都市では米穀の配給は通帳制となり、大人一日につき二合三勺(約〇・四リットル)と定められた。同十四年以降、食糧は減少し始め、滋賀県では同年より米の増産と多収穫品種への転換を積極的に奨励する一方、節米運動も展開され、酒の醸造は抑制された。農村部では同十五年から米の供出制が始まったが、同十七年二月、食糧管理法により米は政府が全面的に管理統制し、県内の農家に対して徹底した供出米が割り当てられた。食塩も通帳配給制となり、衣料品も切符制が採用され、味噌や醤油、砂糖も配給統制の状態になった。また、タンパク源を補うためにイナゴを捕り、それを佃煮にしたり、焼いて食べた。同十八年には滋賀県食糧増産緊急対策要綱が定められ、不耕地利用による雑穀とイモの増産が進められ、食用作物が最優先して作付けされた。都市生活者は配給品だけでは生活が不可能となり、買い出し・物々交換や闇取り引きなどで乏しい生活を維持した。戦局が悪化するにつれて、配給品は質量ともに低下した。米は慢性的に欠乏した状態の中で、敗戦直前の米の配給量は、大人一日分二合一勺になったために、米の代用食品が出まわった。代用品にはサツマイモ・ジャガイモ・大豆・トウモロコシ・コウリャン・小麦粉が用いられ、野菜も欠乏しがちであった。
写186 衣料切符 戦時下における衣料統制としての配給制度は、昭和17年(1942)より点数制となった。戦争の激化により統制品目はふえ、切符の点数は減少する状態が続いた。写真は戦後まもないころのものではあるが、形式は戦前のものを踏襲している(山本重夫氏所蔵)。
こうした耐乏生活の中で、さらに追い打ちをかけたのは度重なる増税であった。太平洋戦争突入時から顕著になり、新税が導入されたり、既存の税率が引き上げられた。また、貯蓄面では政府が国債の消化やインフレ抑制のために国民の貯蓄を奨励した。倹約のために「愛国貯金」という名称で半強制的に貯蓄が求められたのである。
教育面においては、小学校で同十五年より興亞奉公日を毎月一日と定め、県下の児童は昼食を日の丸弁当とし、学校近くの神社で戦争完遂と兵士の武運長久を祈願したのである。中学校での軍事教練は徹底され、勤労奉仕・勤労動員が通年化された。他方、同十年六月、都市に住む学童の集団疎開が始まり、約四一万人が地方に疎開した。県下には軍事関連施設や工場が少なく、空襲を受ける恐れがないとされて疎開学童の受け入れを行なった。同十九年に県下の各市町村が分担して大阪市内の学童・職員一万一、三七三人を受け入れた。蒲生郡や高島郡が一、〇〇〇人を越える人員を受け入れ、甲賀郡では五校八六〇人の疎開学童を受け入れた。
同二十年六月になると、県内も空襲を受けるようになり、大津や彦根の工場、彦根や守山の駅が攻撃された。特に七月三十一日には湖南地域全域にわたって空襲を受けた。