召集礼状、いわゆる赤紙は役場職員が届け、その赤紙は神棚に供えておく家が多くみられた。出征に際して、吉御子(よしみこ)神社や吉姫(よしひめ)神社で祈祷してもらい、小字(こあざ)単位で、あるいは家で親戚や近隣の者が集まって、簡単な酒宴を開いた。家族の者は出征時に弾丸よけを願って千人針(千人の女性が赤糸で一針ずつ縫った白布の腹巻)や、成田不動尊の御守、薬類、本人の好物などを持たせた。
出征当日、家の出口にカモン(竹を芯にしてそれに藁を巻いて杉を刺したもの)を左右に二柱作り、国旗などを掲げた。出征兵士は白旗を振られながらの門出であった。出征兵士は役場の前に集まり、町長の挨拶を受けた後、石部駅まで見送りを受けた。音楽隊が軍歌を奏でるなか、白いエプロンの上に「国防婦人会」と記した襷を掛けた国防婦人会の女性らは「勝って来るぞと勇ましく……」(「出征兵士を送る歌」)を歌いながら白旗や国旗を振って見送ったのである。
写187 出征兵士と家族 家の前に国旗、応召する兵士の名前を記した幟を立て、大日本国防婦人会の襷をかけた妻と両親に囲まれ、記念撮影をして出征していった(昭和14年応召、当時25歳。竹村房枝氏所蔵)。
出征後、残された家族は夫あるいは父の無事に帰還することを神仏に祈った。たとえば、毎月一日と十五日に町内の吉姫神社や吉御子神社へ参拝したり、水口町伴谷(ばんだに)の春日(かすが)神社・高山(たかやま)不動尊へもお参りしたのである。
最後に、出征に際しての悲しいエピソードに触れておきたい。遺族に対する聞き取りの中で数々の哀話を聞いたが、ここでは二つのエピソードを略述しておく。
(その一 Aさんの場合)
夫は昭和十八年十一月に、町民に見送られて出征し、三重県津市の連隊に入営した。夫からの葉書が届き、一度だけ面会に津へ行った際、〝H〟と刺繍したハンカチを手渡したのである。ところが、後日、「石部駅近くの線路際の水田に落ちていた」と言って、その水田耕作者がハンカチを拾い届けてくれた。これを見て、津から戦地に向かったことを夫が知らせるために、夫が石部駅を通過する際に列車から投げ落としたものと信じ、無事の帰還を祈りながら思わず涙が溢れ出た。だが、夫は再び石部駅に降り立つことはなかったのである。
(その二 Bさんの場合)
夫は昭和十四年九月に応召し従軍した後、無事に帰還した。出征時に二歳であった長女は、帰還時には四歳になっていた。夫が自宅に戻ると、長女は「あの、おっさん誰や」と母に尋ねた。母は「お父さんや」と言ったが、長女は夫を嫌って寄り付かなかったのである。そして、長女は、「私のお父さんはお菓子屋にいやはる」と言って、夫を忌避(きひ)した(菓子屋に売っていた五銭のキャラメルの表紙に鉄兜(かぶと)をかぶった兵士が描かれていて、それをお父さん=兵隊と考えていた)。夫は「みずくさいもんや」と嘆いているうちに、再度応召し、長女におじさんと呼ばれたまま夫はついに帰還しなかったのである。
夫は昭和十八年十一月に、町民に見送られて出征し、三重県津市の連隊に入営した。夫からの葉書が届き、一度だけ面会に津へ行った際、〝H〟と刺繍したハンカチを手渡したのである。ところが、後日、「石部駅近くの線路際の水田に落ちていた」と言って、その水田耕作者がハンカチを拾い届けてくれた。これを見て、津から戦地に向かったことを夫が知らせるために、夫が石部駅を通過する際に列車から投げ落としたものと信じ、無事の帰還を祈りながら思わず涙が溢れ出た。だが、夫は再び石部駅に降り立つことはなかったのである。
(その二 Bさんの場合)
夫は昭和十四年九月に応召し従軍した後、無事に帰還した。出征時に二歳であった長女は、帰還時には四歳になっていた。夫が自宅に戻ると、長女は「あの、おっさん誰や」と母に尋ねた。母は「お父さんや」と言ったが、長女は夫を嫌って寄り付かなかったのである。そして、長女は、「私のお父さんはお菓子屋にいやはる」と言って、夫を忌避(きひ)した(菓子屋に売っていた五銭のキャラメルの表紙に鉄兜(かぶと)をかぶった兵士が描かれていて、それをお父さん=兵隊と考えていた)。夫は「みずくさいもんや」と嘆いているうちに、再度応召し、長女におじさんと呼ばれたまま夫はついに帰還しなかったのである。