滋賀県下の戦没者は昭和元年から同二十年までの間に三万二、五九二人となっている。時期的には昭和元年から日中戦争までに一四〇人、日中戦争中に三二四人であったのに比して、太平洋戦争中には二万九、二一二人と、全体の九〇パーセント近くに達する。市郡別には、大津市が陸軍三、一六七人、海軍六二九人で計三、七九六人と最も多く、次に甲賀郡であり陸軍三、〇九九人、海軍六四二人の計三、七四一人の戦死者があった。戦死地域別にみると、フィリピンが多く、陸軍七、四二五人、海軍一、四一八人の計八、八四三人になっている。これは京都の伏見に設置された第十六師団歩兵第九連隊の本県出身者が多かったためである。この連隊は同十九年十月のフィリピンのレイテ沖海戦に参加し、連合艦隊が大打撃を受けたことによる犠牲者である。
さて、日清・日露戦争から中国との十五年戦争・太平洋戦争までの石部町民の出征状況をみてみよう。ここでは昭和六十年に石部町遺族会が行った調査結果をもとにして、応召時に戸籍が石部町にあって出征し、戦死した町民の実態を探ってみよう。資料的な制約で当時の町民の出征者全体は明らかにできないが、いくらかの傾向は把握できるであろう。
まず、町民の出征状況をみてみよう。召集された町民のうち、戦死した町民の召集時期を年毎に示したのが図50である。日露戦争で従軍・戦死したのは明治三十七年(一九〇四)に五人いる。その後、昭和に入ると、昭和九年から同十四年までに一三人、そして、同十五年には七人となった。太平洋戦争の勃発した同十六年以降は年間一〇人を越えたのである。同十六年に一五人、同十七年に一三人、そして、同十八年~十九年には戦争の激化にともなって、大幅に増加し同十八年の場合、一年間に二四人の戦死者に達したのである。この召集時期を月毎にみると、同十八年二~四月、同年十一月~同十九年一月、同年三~七月に集中的に召集されている。特に、同十八年二月には五人、同年十二月には六人と多くの出征兵士を出した。
図50 戦死者の年別召集時期
石部町遺族会の調査結果より作成
次に召集時の年齢をまとめたものが図51である。最年少の出征者は十七歳であり、最年長の出征者は四十歳であった。二十二歳から二十四歳までの時に召集された者が一〇人以上になり、二十四歳の時の出征者が一四人と最多になっている。また、五歳区分でみると、二十~二十四歳の者が四四人に達し、全体の四〇パーセント強にあたっている。
図51 戦死者の召集時の年齢
石部町遺族会の調査結果より作成
出征兵士の戦死時期についてみると、図52のようになる。同十九年五月以降、毎月戦死者がでている。戦死者は同年七月には一ヶ月で一〇人にのぼり、以後、毎月平均四人の割合で戦没し、町内に数多くの戦争遺族が生み出された。年毎には同十九年に三四人、同二十年に四一人と集中しており、戦争の激化・戦局の悪化にともなって、町民の中から数多くの戦死者が出たことを如実に示している。
図52 出征兵士の月別戦死時期
注)石部町遺族会の調査結果より作成
最後に、戦死者の戦死地域を示したのが図53である。石部町の出征者が所属した部隊(連隊)は、京都・伏見連隊が最も多く、そのほか、京都・敦賀(つるが)連隊、京都・舞鶴(まいづる)海兵隊などの部隊である。戦死地は所属部隊の関係によるが、フィリピン・中国・ビルマが主となっている。なかでもフィリピンと中国が最も多く、二九人に及んでいる。フィリピンにおいてはレイテ島で戦死した者が一三人にのぼった。中国のなかでは中支方面での戦死者が一七人と半数以上に達している。また、傷病を負って帰還し、国内で死亡した者などが、一一人に達している。
図53 戦死者の戦死地域
石部町遺族会の調査結果より作成