葬式当日、午前一一時三〇分、太鼓による第一号報で会葬の準備に入る。そして、正午に梵鐘第二号報で喪家(そうか)の勤行が始められ、その後、喪家から出棺した。喪家の自宅から葬儀場となる大塚(おおつか)山までの葬列の順序は、「故陸軍歩兵上等兵西岡徳治郎氏公葬式順序」によると、次のとおりである。葬列は小学校生徒に始まり、町旗や高張一対・仏旗一対・寄贈生花一七対・盛物二対・三ツ具足が続いた。その後に、親族・式事が、そして、他宗寺院・本願寺派執事長・本願寺派寺院・真宗大谷派事務総長・大谷派寺院・導師附・導師・役僧といった僧職者が連なった。次に、提灯(ちょうちん)一対・銘旗となり、柩(ひつぎ)と墓標が位置した。さらに、喪主・遺族と戦死者の血縁者が、それに、知事・郡長・警察署長・愛国婦人会役員・甲賀忠勇会役員・一般吏員・郡会議員・町村長・町会議員・公吏といった地域の役職者が並んだ。続いて、甲賀忠勇会支部旗と在郷軍人・出征兵士家族・赤十字社員・部徳会員・愛国婦人会員・各団体会員・一般会葬者が列に加わった。通常の葬列に比べると、公職にある知事や郡長・警察署長・郡会議員・町村長・町会議員が葬列に加わり、大規模な葬列になっている。
葬儀場に到着すると、図54の式場図にあるように、参会者は着席した。葬式は参会者一同が着席した後、最初は風琴令図に対して敬礼した。小学校生徒が「命を捨てて」をラッパで演奏して、導師が焼香し、そして、喪主が祭告文を告げ、遺族が焼香したのである。次に大谷派事務総長や本願寺派執事長が弔文を読んだ。さらに、参会者一同が起立した上で知事が祭文を読み上げた。その後も葬列に加わった警察署長や愛国婦人会長・甲賀忠勇会長・町長・郡長会議員などの公職にある者が弔文を読んだ。また、この間に官吏や小学校長が焼香した。これが終わると小学校生徒が唱歌「戦死者を弔ふ歌」を歌い、僧侶が勤行する間に親族が焼香した。そして、奏楽「臣ノ鑑」が奏でられ、喪主の挨拶が行われた。最後に、参会者一同が風琴令図に対して敬礼して葬式は終了し、葬儀場から退場する。当時の戦死者葬儀は、きわめて厳粛で盛大なものであったことがうかがえる。太平洋戦争開始当初の戦死者についても、小学校講堂でこうした町葬が行われたようであるが、終戦直前には、自宅や寺で簡単に済ませる場合も多く見受けられた。
図54 葬儀場略図 『故陸軍上等兵西岡徳治郎氏公葬式順序』 (西岡種夫氏所蔵)