戦時下の地域生活の実態

663 ~ 667ページ
①空襲
石部町上空はちょうど、B-29爆撃機の京阪神や名古屋への飛行経路になっていた関係上、数多くの爆撃機が飛来し、それらはきらきらと光り美しかったと言われている。石部町でも灯火管制や防空体制をしいていたが、幸いにも直接的な空襲による被害はなかった。昭和二十年三月十四日大阪大空襲の際には、日が暮れても爆撃による火災(一三万戸焼失)で石部町西南の方角の空は赤味がかっていたと言われる。
 ②疎開者・疎開児童の受け入れ
 疎開者には町民の親戚・縁故者がほとんどで、主に大阪や名古屋から疎開してきた。彼らは寄留先の敷地内に離れを借りたり、空地に小屋を立て掛けて生活している場合が多く見受けられた。石部町では大阪からの疎開児童を受け入れた。大阪市の立葉国民学校(浪速(なにわ)区)の児童が町内に分宿した。西福寺にも二〇~三〇人の児童が宿泊したが、このため、仮設の便所を五つ作って対応した。
 ③兵隊の宿泊
 町内に兵隊が分宿したことがあったが、宿泊させた家では、肉と皮のままのジャガイモを煮て、炊き出しをした。農兵が甲西町菩提寺でのイモ作りのために、浄現寺に三〇~五〇人寄宿していた時には、農兵は近所の風呂に入れてもらう機会があり、その家はお礼に当時、貴重であった缶詰などをもらい受けたという。
 ④生産
 作物の肥料は主に各家々のもの(人糞や鶏糞)で自給したが、小学校などの公共施設からもらい受けた家もあった。風呂の水などを入れて肥の量を増やすこともあったようである。また、配給による肥料は石部町農業実行組合長から配られた。
 当時、石油や石炭といった家庭用燃料は入手が困難で、一般家庭では、割木や柴などがほとんどであった。一戸あたり年間四〇〇束の割木と柴が必要で、これらは雨山などへ小字単位で取りに行くこともよくあった。谷町の場合には各戸より一人ずつ参加して雨山へ行き、採出した割木は現在の農協の前で均等に分配したことがあった。また柴刈りは農作業の合間に個人で、あるいは、小字単位で付近の山へ行った。この柴も主に自給用であったが、京都などから買いにくる者もいた。
 石油などの代替燃料として、亜炭や松脂も利用されたのである。亜炭(炭化の度合いが低い石炭)は丸山で産出し、町外へも出荷された。松脂は昭和十五、六年ごろ、灰山などに植えられていた松から脂を採取して専ら出荷された。採取方法は、切り込みが入れられた松には一斗缶が取り付けてあり、脂がそこに流れ出る仕掛けになっていて、松の切り込みに残った脂をヘラで掃き集めたのである。
 出征兵士を出した家の主婦に典型的な一日を回想してもらうと、重労働で辛い毎日を送っていたようである。午前三時に起床し、昼まで山へ行き割木出しや柴刈りをし、午後から田畑で農作業をした。帰宅は早くても午後七時であり、夕食後に子供を寝かしつけ、午後十一時ごろまで繕(つくろ)いなど和裁をした。睡眠時間は四時間程度に限られ、主婦は厳しい生活を強いられていた。
 ⑤消費
 衣服は女性(主婦)の場合モンペ・絣(かすり)を、男性の場合には国民服と脚絆(きゃはん)を常用した。モンペは配給された銘仙(めいせん)や古い和服をもとにして縫った。あるいは、古着屋で良い着物二着とモンペに使う木綿一反とを交換したこともあった。モンペが破れて、繕う布に不自由することさえあった。シャツなどの下着の芯を取り、これで作る工夫もした。子供の学生服も徐々に調達が困難になり、子供の衣服は親の古着を再生したものがほとんどであった。ひどい時には配給された軍事用のテント二個をもらい受けて学生服に作り替えたこともあった。農閑期には糸を購入し、町内の染屋で染めてもらった後、家で二、三反の布を織り、衣服を縫った農家も多かった。
 米は自給していたものの、良い米は収穫の半分以上(反当たり五俵)を供出しなければならず、残米だけでは十分でない農家もあり、さまざまな工夫を凝らした。たとえば米の不足量を補充するために、ジャガイモ・サツマイモ・サトイモ・コウリャン・大根・豆粕などを混ぜ合わせてご飯を炊いた。さらに欠乏の度合が増すと、水菜の粥(かゆ)やカンタロウ・カボチャ・大麦がご飯の補充食となる場合があった。水菜の粥は、肥料用の魚でダシを取り、水菜を刻んで少量の米を入れたものである。また、カンタロウは、小麦を挽き、溶いて、味噌汁に流し込んだものである。カボチャも米の代用となり、サツマイモが昼の弁当代わりに利用されることも多かった。大麦には、炊くと倍以上の分量になるヨバシムギと呼ばれるものもあった。
 魚は町内の店や、週に一度のリヤカーによる行商で、塩分の強い辛口塩鮭・丸干・塩昆布を中心に購入したが、肥料用のニシンやグジも食用にした。野菜は農村部であったため、比較的容易に調達できたが、入手が困難になると、通常利用しないものまで食べた。たとえば、サツマイモのツルを湯がき干しておき、適宜、料理したり、水田近くに自生するセリやネギに似たノビル、大根の赤葉も食した。醤油・味噌・大豆・砂糖・缶詰・酒などの食品や調味料、さらにマッチは配給であった。このうち、醤油や味噌・砂糖は特に欠乏することが多かった。このため、大豆を栽培していた農家は家で醤油や味噌を作ったり、その代用品として塩も用いたこともあった。こうした耐乏生活のなかで、くじらと水菜の醤油煮や、家で飼育していた鶏(かしわ)のすきやきはぜいたくな料理のひとつであった。
 灯火管制のために、警報が発令されると、光が漏れないように電灯(裸電球)を風呂敷で巻いたことも多く、蝋燭(ろうそく)の火さえも厳しく制限された。
 ⑥供出と貯蓄
 まず、米の供出として、毎年秋に一反当たり五俵ほど割り当てられ、農家は非常に困った。また、家庭にある金属製品の大部分が軍事供出させられた。たとえば、金属製の火鉢・窓枠の鉄格子・鉄ビン・鍋・茶釜・仏具・屋根のトユ・蚊帳の吊り手・寺の吊り鐘などの鉄や銅でできているものがその対象になった。さらに、隣組の役員によって指輪や時計が登録させられ、いつでも供出できる体制をとった。それに、貯蓄運動が活発に行われ、各家庭は「愛国貯金」に加入したり、軍事債券を多く購入したが、これらは終戦後、うやむやになってしまったという。

写189 戦時郵便貯金切手 戦時体制下、国民生活の窮乏が進むと、政府は軍事債券の発行や、愛国貯金などさまざまな形で貯蓄運動を進め、軍事費の調達をはかった(山本重夫氏所蔵)。