町村合併促進に関する説明会も開催された。これは町村合併についての一般町民の認識と理解を高めるためのものであった。同二十九年五月二十九日には石部町公会堂において甲賀地方事務所総務課長や滋賀県教育委員会甲賀分室の係官による説明が、およそ一時間半にわたって行われ、聴衆者は約一五〇人にのぼった。説明後の質疑応答がなされたが、主な質問内容は、(1)町村合併法の内容・性格、(2)合併の可否と地方交付金補助の多寡、(3)合併による町財政の健全化の可能性、などであった。
県が計画した合併案に対して、石部町は古来より宿駅であったことを理由に、(1)石部町の町名を存続させること、(2)役場位置を変更しないこと、の二つの条件つきで賛成したのである。他方、下田村は商業上の関係から北接する苗村と鏡山村(竜王町)との合併を望み、三雲村と岩根村は石部の町名存続には同意したものの、役場の位置は三町村の中央にする必要があると主張し、合併の議論は進展しなかった。その後、下田村がこの協議会から脱会したため、同三十年二月五日、石部町・三雲村・岩根村合併促進協議会が改めて組織された。これにともない、委員の構成が変更され、石部町では町議会議員二人と町助役が加えられて合計一〇人の委員となった。協議会会長には石部町長があてられた。
こうした事態のうちに、同三十年四月、三雲村と岩根村が合併して、甲西町が誕生したのである。翌三十一年十月に、前述の合併促進法が期限切れとなった後、未合併町村解消のために新市町村建設促進法が制定された。
ところで、県は従来の方針に固執し、同三十二年一月、新促進法に基づいて、県知事名による合併勧告を出したのである。県下ではこの勧告にしたがって、難行し未解決であった編入合併が進められた。しかし、この勧告は石部町と甲西町(下田村は合併された)では受け入れられず、合併は進展しなかった。さらに、同三十四年十一月に、県の依頼で、内閣総理大臣名の勧告が出されたにもかかわらず、合併には至らなかった。
合併が実現しなかった要因として、教育的要因と財政的要因の二つがあげられる。(小林博『石部町のあゆみ』、『滋賀県市町村沿革史』)まず、第一に教育問題がその要因となっている。合併問題以前に石部町・三雲村・岩根村・下田村の四町村による組合立新制中学校の建設・位置問題が起こったのである。四町村が新中学校建設のために組合を結成した後、学校の位置をめぐって意見が対立した。さらに、同校への通学橋(岩根~三雲)架設の分担金をめぐる対立、加えて、学校建設費の滞納とそれに対する公金取り押さえなどの諸問題があった。この間、町内では、四町村組合立中学校を維持しようとするグループと、石部町単独で中学校を建設しようとするグループの二派に別れて紛糾した。やがて、この問題は町長や助役の辞任にまで発展したのである。以上の経緯から、石部町と三村との間には多くの問題を抱えており、感情的なしこりを残していたわけである。第二の要因は財政的に、これまで単独町維持の前提に立った町運営がなされ、そのような基盤があったことである。つまり、工場誘致や土地改良、住宅・上水道の建設が積極的に進められており、同三十五年以降町財政において、地方交付税に対する依存度がより高くならない見通しをある程度もっていたことにもよる。