新国道と工場進出

690 ~ 692ページ
国土復興のために建設土木工事が活発に進められる中で、その工事材料が求められた。一方、石部町の主要道路は戦前から石部地区を東西に横断する旧東海道であったが、同二十七年十月に新国道(現国道一号線)が町北部の沖積低地を直線で東西を横断するように建設された。こうした全国的な状況と新国道の建設によって工場の進出が可能となった。また、県が工場誘致案内書を作成し、これを全国の大企業に配布して積極的に誘致運動を進めた。石部町もそれに依拠しつつ、独自に企業誘致を進めたこともあって本格的な工場進出をみることになった。
 まず、同二十八年四月、日本スタッコ株式会社が進出した。工場は福岡県にもあり、町内で多く産出する石灰石を利用して、建築材料となる化粧塗料を生産した。当時の従業員は約二〇人で、日産一〇トンに及び、出荷先は西日本地域であった。操業が開始された同二十九年五月ごろにみられた工場での作業風景は次のように記されている。
  一七~一八人の工員がマスクをかけ、粉末のため全身真ッ白になって作業に余念がない。工場の中央には魚形水雷を連想させるようなグロテスクな大きい粉砕機が勢いよく回転している。製品は一旦、自動的にヤグラ式の屋上貯蔵庫に運ばれ、随時、一定量(セメント袋同様)の紙袋に詰め込まれる(『町報』第二四号)。
 次に、同二十九年十月に京阪コンクリート株式会社滋賀工場が操業を開始した。鉄筋コンクリート管や護岸用コンクリートブロックが生産された。これらは災害河川の復旧工事や農地改良の揚排水工事などの土木工事に用いられるものである。それに、名神高速道路や東海道新幹線に必要な建設資材を供給していた。同三十六年一月当時、従業員は約六〇人で、月産三、〇〇〇トンに達した。

 


写195 江州鍛造工業所(左)と旭計器工業(右) 両社とも太平洋戦争中に疎開してきたが、現在もなお、石部の主要工場として操業を続けている。写真は昭和20年代末のもの。

 さらに昭和三十一年に入ると、中川ヒューム管株式会社滋賀工場(コンクリート製のヒューム管・集水管・曲管の製造、同三十四年当時の従業員一六五人)と中央コンクリート株式会社(コンクリート製品およびセメント製品の製造、同三十四年当時の従業員一四五人)が進出した。
 これらの工場は交通上の利便性が高い国道一号線沿いに立地したり、あるいは、野洲川の砂利にも注目して野洲川河川敷近くに設けられたのである。