次に、地域の工業化の中心となった製造業の成長過程についてみると、同三十七年には製造業の事業所一二ケ所、従業員一、一八〇人であったが、同四十四年以降三〇ケ所台となり、その後も急増して同四十七年に四九ケ所、二、五一一人に及んだ。翌年には五〇ケ所と戦後最高になったのである。それ以降は、わずかながら減少していたが、同六十年代には再び増加に転じて、三五ケ所以上を安定的に推移している。事業所数を従業員規模別にみると、同三十八年の場合一〇人未満の事業所は九ケ所、一〇人以上の事業所は一〇ケ所であったが、同四十七年になると、一〇人以上の事業所二七ケ所のうち二二ケ所は二〇人以上の従業員を雇用していた。この時期に町内の事業所は数の増加とともに、中規模以上の事業所が増し、事業所の規模拡大が進んだことがわかる。その後、事業所数は減少したが、四~九人の事業所と一〇人~一九人の事業所が全体の二五パーセントずつを占めた。また、二〇~二九人台・三〇~九九人台・一〇〇人以上の規模をもつ事業所は五~六ケ所を維持しており、安定した状態になっている。製造業の事業所数を業種別(産業中分類別)にみると、調査対象業種二二種のうち、町内には一八業種の事業所があった。年次ごとにみると、町内の中心となる製造業種別事業所数には変化がみられる。食料品製造業が同三十二年から四十七年ごろに、そして、木材・木製品製造業が同四十四年から五十三年に、繊維工業の事業所が同四十七年から五十年にかけて、それぞれ大きく増加して、製造業の中心になっている。同四十七年以降は金属製品と一般機械・機器に関する製造業の事業所が大勢を占めた。同六十二年現在、金属製品、一般機械・機器、プラスチック製品、木材・木製品の製造業、および、窯業、鉄鋼業の事業所が主たるものになっている。
次に、従業員数は同四十二年に二、〇〇〇人を越えて、同五十年代後半以降二、五〇〇人前後を維持している。また、製造品出荷額(加工賃収入額と修理料収入額を含む)では、同四十三年に一〇〇億円を越え、同四十七年に二〇〇億円台となった。さらに、同四十九年には三〇〇億円に達し、同五十三年に四〇〇億円に及んだ。そして、同五十四年から五十七年では五〇〇億円台を推移したが、それ以降は二年ごとに一〇〇億円ずつ増加して、同六十二年には八一七億円に上っている。
町内の事業所は事業所数や従業員数、製造品出荷額をみる限り、同四十年ごろから五十年ごろにかけて急成長している。そして、オイル・ショックやドル・ショックなどといったさまざまな全国的な経済危機の影響を受けたものの、その後は事業所数四〇ケ所前後、従業員数二、四〇〇人前後で安定した推移をしている。製造品出荷額は着実な増加を示し、同五十年代の町内の製造業は安定した成長を遂げ、同六十年代には、再び大幅な成長の兆候がみられる。