公営住宅開発

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昭和三十六年以降は計画的に大規模な住宅開発が展開された。まず、同三十六年から三十八年にかけて東清水(ひがししみず)町に総面積一万一、一二〇平方メートルに及ぶ宮の森団地が造成され、三年間で八五戸(同四十三年に二戸増設)の平屋建住宅が作られた。
 次に、同三十九年、東寺字長島に東寺団地が造成された。その後、東寺団地は断続的に七年にわたりさまざまな種類の住宅が合計一一二戸作られた。
 さらに、西寺地先の約九、五〇〇平方メートルの土地に同四十五年五月より造成工事が進められた。この西寺団地は当初、甲賀郡開発事業団(甲賀郡内七町で各町の事業計画をもとにこれらを組み合わせて地域内の総合開発を進めるための公共団体で、同四十三年に設置。石部町の計画は宅地造成事業が中心)による町営住宅と滋賀県住宅供給公社の分譲住宅が建設されたが、同四十六年から町営住宅建設予定地の南半分には県営住宅が設けられることになった。町営住宅と県営住宅は二階建で一棟に六戸が入居できるものであった。まず、町営住宅は同四十五年から五年間に毎年二棟一二戸ずつが建設されたのをはじめ、同五十四年までに一七棟九八戸が建設された。なお、これらの住宅の一戸あたりの面積は同四十八年に四二・七四平方メートル、同四十九年に四六・一七平方メートル、同五十年に四九・六一平方メートルと徐々に拡張され、狭少感を改善しようと努めている。特に同五十二年に建設された住宅から従来の二DKから三DKとなり、延面積も五五・四七平方メートルに広げられた。次に、県営住宅は同四十六年から三年間に九棟五二戸が設けられた。他方、同団地造成当初より予定されていた滋賀県住宅供給公社の分譲住宅四五区画は同四十五年より建設が進められた。
 以上のように、公営住宅建設は当初、人口流出の防止策としての意味が強かったが、高度経済成長期を迎えた時期には町内の誘致工場への就業者や京阪神地区への通勤者の住宅需要に対応するものになった。この需要に早急に対処するために、同二十七年以来、四六〇戸あまりの公営住宅建設を着実に進めてきたわけである。こうした中で、初期に建築された住宅は老朽化が進んだために、居住者に払い下げたり、改築工事を進めている。