戦後の小学校

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昭和二十年(一九四五)八月十五日、日本の無条件降伏により大平洋戦争は終結したが、学校教師に与えた衝撃と苦脳は大きかった。同年の五月から九月十五日、文部省は「新日本建設の教育方針」を打ち出した。これは教育政策の一八〇度の転換を示したもので、教育現場で「聖戦」完遂に向けて教育的努力をしていた教師には良心の呵責ととまどいが強かった。同年十月に連合国総司令部(GHQ)の指令で、日本の教育行政はGHQによって管理されることになった。この指令の中に「急迫セル現情ニ鑑ミ一時的ニ其ノ使用ヲ許サレテヰル現行ノ教課目、教科書教授指導書ソノ他ノ教材ハ出来得ル限リ速カニ検討セラルベキデアリ、軍国主義的乃至極端ナル国家主義的イデオロギーヲ助長スル目的ヲ以テ作成セラレタル箇所ハ削除セラルベキコト」とあった。これに基づいて教科書の該当部分に墨を塗って削除し、敗戦のみじめさを味わった。同年十二月にGHQより修身、日本歴史及び地理の授業が禁止された。
 同二十一年四月、GHQの指令により前年削除した墨塗り教科書は使えなくなり、暫定措置として泥縄式に作成した更半紙の粗末な教科書を使用した。同年七月二十八日、明治・大正・昭和三代の天皇・皇后の御真影と教育勅語謄本を返還した。同年九月二十七日、GHQ米第六軍が大津に駐屯し県庁内に滋賀軍政部を設置した。滋賀軍政部民間情報課のマートン中尉が、占領軍の管理政策がどの程度浸透しているかを調査する目的で教育事情視察のため石部小学校へ来校した。この視察によって起きた教育干渉事件は、県下の各学校に大きな衝撃を与えたが、在米経験者の井上善作の奔走により軍政部や関係者の理解が得られて落着した。この事件後、軍国主義に触れると思われる文献・教材・教具などを焼却し貴重な教育資料がその時数多く失われた。
 同二十一年三月、連合国軍最高司令官の要請により米国教育使節団が来日し、同年四月六・三・三制などの新学制教育の民主化を日本に勧告した。それを受けて同年五月十五日、文部省は「新教育指針」第一分冊を配布し、これからの日本の教育の進路を示した。
 同二十二年四月、学制が改革され六・三・三制の実施により校名を石部小学校と改称した。同時に石部町立石部中学校が併設されて校舎の一部を使用した。同年九月二日、学校教育法公布後初めての社会科の授業が始まり、社会科を中心とするコア・カリキュラムの研究が熱心に進められた。同年九月、文部省は中央集権統制を排除して教育の地方分権を推し進めようとし教科書の国家統制を廃し検定制度とする方針を定め、同二十四年度から検定教科書の中から個々の学校が採択する制度となった。
 同二十三年一月一日、県の指定によって石部小学校は甲賀郡における新教育の実験学校となり、週五日制の教育実験にあたった。その実験報告は翌年二月、同二十五年十一月に県下の教育関係者を集めて行われた。
 同二十四年四月、六・三・三制の教育制度の確立によって、石部町・三雲村・岩根村・下田村の組合立甲西中学校が設立され、石部小学校校舎の一部が中学校の石部校舎となった。