町立中学への熱望

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昭和二十二年四月、学制の改革により、石部町立石部尋常高等小学校の高等科は、三年制の石部中学校となり、石部小学校の高等科教室をあてて開校された。
 同二十四年四月、各町村単位の中学校が設置されてから、その後、数ケ町村合併してブロックごとに統合の方針が示され、石部町は三雲村・岩根村・下田村の組合立甲西中学校の石部校舎となった。ところが、新校舎の統合で位置がまとまらず、一五〇回に及ぶ会議を重ねても決着しないので、滋賀県民事部(元の軍政部)の裁定に一任した結果、同年十月に、一、平松付近一校設置が望ましい、一、野洲川架橋、バス通学などによる通学の便を考えること、その経費は四ケ町村で分担すること、一、下田分校は当分一年生のみを収容し、交通改善によって可及的速やかに本校に合併すること、の勧告を受けた。このようにして石部町が主張した東西二校案はとりあげられなかったのである。
 同二十五年九月、甲西中学校の第一期工事が起工され、翌年八月完工した。三雲村・岩根村の生徒は移転したが、石部町・下田村は不満のため現校舎に留まった。この間石部町では、組合脱退通告や単独中学期成同盟会の結成などの動きがあり混乱した。同年十一月に町議会は解散、町長・助役は共に辞任して町政麻痺(まひ)を来たした。この状況下の十一月石部町の生徒は新校舎に収容され、開校式が行われ、石部校舎は廃止された。十二月、町長・町議会議員の選挙が実施され、町長に谷村俊二、議会議長に青木泰三が選任されたが、中学校問題は曙光を見ぬまま深刻化し、同二十七年十月の住民投票にまで追いこまれた。単独中学賛成九三一、組合立中学賛成八〇二という結果であった。同年十一月、地方教育委員会が発足したので問題の処理は教育委員会に移された形となったが、約一年間両派の対立が続いた。
 同三十三年四月、三雲村・岩根村が合併して甲西町となり、ついで十月下田村もこれと合併したので、以後石部町甲西町組合立甲西中学校となった。
 同四十六年三月、石部町議会において、石部町独立中学校を建設することが決議された。同二十六年以来、町議会特別審議会において単独中学設置について審議を重ね、貴生川中学校視察などを経て結論を見い出し、同二十七年二月新中問題に関する答申書を町議会議長に提出して以来の石部町の一大教育問題がここにようやくその方向を確定したのであった。同四十七年、石部町文教施設等設置審議会が設けられ、用地について審議され、設置場所は石部町大字石部三八七七番地の一六(現在地)に決定した。

写211 新中問題特別審議会答申 昭和27年(1952)2月、中学校を石部町単独立とするか、甲西町との組合立とするかについて特別審議会が設置された。答申書では単独立・組合立双方の長所・短所を上げているものの昭和46年に独立中学建設決議が出されるまでこの問題は継続したのである(石部町教育委員会所蔵)。

 同四十八年十一月、校用地造成工事に着手、翌年四月、建設起工式が行われ、同五十年三月、石部中学校校舎が完成した。同じく三月、石部中学校の開校にあたり、石部町甲西町組合立甲西中学校の閉校式が行われた。