同二十六年、青年団の活動も軌道にのり、青年団報の発行・町報の編集発行にあたった。同二十九年には新聞活動は休止したが、ほかに人形劇・フォークダンスなど、グループ活動を積極的に推進した。同二十七年七月、子ども会を結成して、青年団の活動としてとり入れ、リーダーとして指導にあたった。
写217 町報と地域婦人会会報「あゆみ」 昭和27年(1952)より発行された町報(上)は当初、青年団が編集発行していた。そのため青年団会報と、町公報を兼ねるものとなっていた。「あゆみ」(下)は地域婦人会の報告・案内などを掲載し、各会員へのパイプ役となっている。
同三十三年一月、団則を改正して、書記局制を廃した。団長・副団長、そして事業部・文化部・社会部・体育部・家政部を置いて部長をリーダーとして活動した。同三十四年では、会員は八五人であった。同三十二年ごろより社会の情勢が変化し、石部町に数多くの企業が進出したため、多くの青年団員は就職し青年団活動が疎かになり、組織の弱体化、団員の減少がみられた。これに対し、青年団の指導者は青年団活動の目的及び活動がいかにあるべきか再検討し、積極的なPR活動を行い、同三十五年、機関紙「若鮎」を発行した。
同三十七年、町長はじめ、町理事者と座談会を開き、旧公民館(現石部保育所)の一室を青年の憩いの場とし、ここに青年団事務所を設置した。同三十九年、県青年連絡協議会に再加盟し、団外交換(山口県防府市)、郡内親善バレボール大会参加、郡内他町村との交流会など重点的に推進し、参加率九〇パーセントとなった。演劇同好会は県大会で努力賞を受賞した。
同四十三年、新しく研修部が設置され、青年団リーダーの養成に重点が置かれた。ほかに施設訪問を実行した。同四十五年、地域と共に歩む青年団を求めて、自己研修の場を持ち回を重ねたが、団員の減少を食い止めることはできなかった。