口絵解説

長寿寺観経変相図(部分)
 『観無量寿経』(『観経』と略称)の所説にもとづいて、阿弥陀仏の極楽浄土の光景を描いたものを観経変相図という。奈良時代後半からさかんにつくられた。修行者が眼前にこの図と対峙して、弥陀・聖衆の姿や極楽浄土の荘厳のさまを閑かに観じて、修行の一形態である観想を成就さすためのものである。
 図の構成は、中央に極楽の国土のありさまを表わし、周縁部の右縁(向かって左)には『観経』に説く宮廷秘話、左縁(向かって右)には浄土の観想方法、下縁には九品往生の図が配されている。
 長寿寺には、滋賀県指定文化財の観経変相図が大小二幅ある。どちらも絹本着色であるが、小幅(129.8×111.6)の方が古く、鎌倉時代後期の作とされている。中央の阿弥陀三尊を中心とした諸菩薩にみるべきものがあるが、構図的にはやや簡略化されたところがあり、惜しくも中央部縦に傷みがみられる。これに対し、口絵に掲げた大幅の方は成立こそ室町時代に下るが、化仏・菩薩・宝樹・楼閣・飛天など描写が細やかで、全体としてにぎやかな構図となっている。諸尊は肉身を金泥とし、輪郭は朱墨で際立たせている。克明に描かれ、色調も明快である。
 (昭和53年3月17日県指定、138.5cm×122.5cm)

 

長寿寺十六羅漢(注荼半託迦尊者)図
 十六羅漢とは、修行の極意に達し、釈迦の正法を護持する十六人の尊者をいう。七世紀中ごろ玄奘によって訳された『大阿羅漢難提蜜多羅所説法住記』に説かれ、これ以後十六羅漢信仰が広まった。『法住記』をふまえて、羅漢像も作られた。画像では、五代のころ禅月大師の作画が描法に妙を極め、一典型をなした。
 わが国へは〓然、ついで俊〓が画像を伝え、鎌倉時代以降禅宗の隆盛にともない羅漢像が流行、図像も和様のものが出現した。
 長寿寺の絹本着色十六羅漢図(十六幀)は顔輝筆と伝えられるが、鎌倉時代初期の作と推定されている。画面が剥落している図もあるが、すべての中間色を多用した華麗な彩色画で、和様羅漢図である。口絵は第十六尊の注荼半託迦(C〓dapanthaka)尊者図である。精気みなぎった顔貌の尊者が樹根の下に置かれた椅床に半跏で坐し、足許には鬼形の供養者が華を捧げている。旧聖衆来迎寺蔵の第十六尊図と比較すると、侍者・天部などが省略され、代わりに樹木、岩石が描かれ、和様化のあとが窺われる。
 参考に掲げた左の図は、長寿寺十六羅漢像の第十五尊阿氏多(Ajita)尊者図である。仏堂の歩廊から、三条に流れ落ちる滝を観る尊者に天部が鉢を捧げている。
 (絹本着色、各63.9cm×35.5cm 明治30年12月28日国宝指定、名称変更・昭和37年5月26日)

 

長寿寺本堂
 鎌倉時代前期の代表的な一重仏堂、正面五間・側面五間の寄木造り、三間の向拝をつけ、廻椽とする。檜皮葺。向拝の各間に蟇股を入れ、廻椽には擬宝珠勾欄をつける。正面三間は棧唐戸。天井は内外陣とも化粧屋根裏となる。組物平三斗、中備間斗束、二軒繁垂木。内陣の床が外陣より低いのが特色で、もと内陣は土間であったらしい。建立以来いく度か修理されているが、よく古態を残した優美な建物である。なお須彌壇中央に板葺一間春日厨子一基が置かれている。
 (一棟・付厨子、明治21年12月28日、昭和28年3月31日国宝指定)
常楽寺本堂
 南北朝時代(延文5年)の一重仏堂、中世和様本堂の好例の一つ。正面七間・側面六間、入母屋造、前面に三間の向拝を出す。近くまで本瓦葺であったが、古態にもどし現在は檜皮葺。正面五間は蔀戸となり、その両脇は連子窓、側面の前方二間は棧唐戸となっている。組物二手先、中備間斗束、二軒繁垂木。内部は内外陣にわかれ、広い後陣を設ける。仏壇上に寄棟造、板葺の一間厨子一基が安置されている。厨子には木造千手観音坐像(大正2年4月14日指定、南北朝時代)を、またその左右の壇上に木造二十八部衆立像(明治45年2月8日指定、鎌倉時代)を安置している。
 (一棟・付厨子,明治31年12月28日、昭和28年3月31日国宝指定)
吉御子神社本殿
 三間社流造、身舎側面二間、浜床式、土台建、屋根は檜皮葺。前面に三間の向拝をつける。京都・加茂別雷神社の旧本殿であり、式年造営のとき、その旧本殿を移したもので、元治3年起工、慶応元年4月の竣工である。構造は簡素組物舟肘木、庇繁虹梁。勾欄、擬宝珠、金具など造営当時のものを遺しているが、他は移建時の補修という。本殿内陣に木造吉彦命坐像一躯、木造随身坐像二躯(ともに明治42年4月5日旧国宝指定)を祀っている。
  (一棟、大正10年4月30日旧国宝指定)
白山神社三十六歌仙扁額(小野小町)
 長寿寺の鎮守社・白山神社の拝殿(昭和34年6月27日、重文指定)に三十六歌仙扁額八面が掲げられていた。現在、保存のため長寿寺宝庫に保管されている。もと甲西町柑子袋の上葦穂神社(旧称白雉神社)にあったものである。永享八年十一月の銘があり、扁額形式の歌仙絵では、京都北野神社の扁額とともに、現在最古の遺品とされている。
 歌仙を四名描いた横長の扁額が四面、同じく五名描いた扁額が四面、あわせて八面あり、額の周縁には朱、胡粉、墨、緑青などの丸形文様が描かれている。胡粉地の上に墨線で各歌仙の像を描き、彩色を施している。人物像には定形化する以前の古様が留められているという。
 口絵は小野小町の像。右上に人名を示す墨書があるが剥落している。また十二単衣の裾の部分に後世の落書があって保存状態はかならずしもよくないが、彩色も比較的良く遺っている方である。
 歌仙絵は歌道の興隆と肖像画の盛行につれて描かれたが、和歌が神に関係があるように、歌仙絵もまた神に奉納されたのであり、白山神社の拝殿に掲げられていたことは不思議ではない。
 (八面、昭和36年7月19日県指定、37.3~38.2cm×175.5~183.0cm)
長寿寺釈迦如来坐像
 説法相、皆金色の釈迦如来坐像。檜材の寄木造、やや扁平ながら豊麗な体躯に、面貌円く、典型的な藤原仏といえよう。肉髻、白毫を嵌入し、眼は半眼に彫り、両手の輓網が深い。衣の皺は浅く、膝は薄い方である。蓮華座上に趺坐し、後補の円光を負うている。長寿寺本堂内陣の須弥壇の向かって左側に安置されている。右側には阿弥陀如来坐像(重文、像高285.5cm)が安置され、中央に子安地蔵を祀った厨子があるが、二尊形式で長寿寺本堂の本尊として祀られていたものである。
 (明治41年4月23日国宝指定、昭和25年8月29日重文指定、像高180cm)
常楽寺三重塔と内部柱壁画(部分)
 室町時代の三重塔。僧慶禅が諸方に勧進して応永7年に造営したもの。方三間三重、本瓦葺。組物は三手先、中備間斗束、二軒繁垂木。各重には四方に扉を設け、二重以上の周椽に勾欄をめぐらしている。各層の屋根の逓減率がよく、安定感がある。当初材の保存もよい。初重内部の四天柱、来迎壁、内法壁などに菩薩、真言八祖、十王などが描かれ、極彩色の文様も比較的よく遺っている。上段右は四天柱(西南隅)の菩薩図(部分)、下段は西側南の内法壁の壁画(十王の内)。
 (一基・附丸瓦平瓦各一箇、明治34年3月27日、昭和28年3月31日国宝指定)
足利高氏制札(長寿寺)
 制札は禁令、法令などを書いて社寺の門前や路傍に掲げた木札で、将棋の駒型の板が使われる。口絵は足利高氏の元弘三年五月二十三日付の制札である。
  長寿寺
  於乱入狼籍之軍勢並甲乙人等者、可罪科之状如
    元弘三年五月廿三日             源朝臣(花押)
 裏面右端に「高氏将軍御制札 直之御判也、元弘三年庚酉五月七日六波羅殿京中被責落之時御札也」との異筆裏書がある。寺側で書き加えたものであろう。六波羅陥落の直後に出され、当時足利高氏の威令が近江に及んでいたことを示す制札として貴重である。源朝臣の名をもって軍勢・住民らの寺域への乱入を禁止したものである。
檜物庄納米・下行状
 檜物庄は室町時代に入ると、その庄域は甲賀郡の西端、長寿寺、常楽寺が存在する地域に局限されるようである。そして長寿寺周辺の地を檜物上庄、常楽寺周辺地域を檜物下庄とよぶようになった。かつての荘園体制は崩壊し、有名無実となる。住民は守護大名やその勢力下にある武士勢力の侵略から自らを守るために地域結合を深めてくる。檜物上庄、同下庄というが、名称こそ荘園名を遺すが、実態は地域村落である。
 このような村落はオトナによって運営されていたが、年間の米・銭などの算用は年行事によってなされ、寺院側の代表もまた参画した。村組織のなかの年行事や寺院機構上の代表者たる長臈によって年間の村算用が行われていることは、寺院を中心として形成された自治的地域村落であることを示している。
 室町時代中期における村の経済に関する貴重な地元史料が口絵に掲げた宝徳四年八月の納米銭、下行分の算用状である。定毎年納・臨時米納あわせて二百七十三石八斗六升一合五才(このほか九升の加地子)と臨時代納五十七貫三百七十八文の納米納銭に対し、その下行分すなわち支出が詳細に挙げられている。ほかに宝徳三年八月、享徳二年八月朔日付の同形式の納米・下行状が吉川勝家に伝えられている。
修正会追儺鬼面(長寿寺)(常楽寺)
 修正会は正月に行われる除災招福、五穀豊穣を祈願する法会で、いわば年頭の祈年祭の仏教版である。古くから諸寺で三日ないし五日、あるいは七日間行われるが、現在では一日だけという地方寺院も少なくない。この修正会の結願日に参詣者が牛王宝印を頂いたり、鬼追いがあったり、真木うばいなどを行ったりする。僧侶による法会のあとで衆徒や住民によって民俗行事が行われる例が多い。長寿寺・常楽寺では修正会のあと鬼を追う追儺の行事がある。鬼走りともいう。この鬼追いに使用される鬼面が両寺に一対ずつ遺っている。ともに大形である。常楽寺の鬼面は、肉厚く、大ぶりな忿怒相で、一面には角があり、一面にはそれがない。角のない方は俗に母鬼といわれるものである。長寿寺の鬼面には、両面とも角があるが、一面は耳のように垂れている。雌鬼を表わしている。
 両寺の面をくらべると、常楽寺の鬼面は眼孔があいているのに対し、長寿寺のそれは眼孔を抜いていない。常楽寺面はこれをかぶって実際に用いることができるが、長寿寺面は不可能である。おそらく奉納面であったろう。宮崎の巨田神社では社殿正面の柱に鬼面一対が懸けてあるが、このようなものであろうか。事実、両寺とも現在では鬼走りに用いられるのは別の仮面であるが、古い時代もそうであったかもしれない。両寺の面はともに室町前期あるいはそれ以前に遡れうる古面とみてよい。
的弓神事(西寺)
 年頭に的や空に向かって矢を射て、悪魔を攘う行事。ふつう社頭で行われるが、東寺・西寺では現在一月十五日の修正会の一環として寺の境内で行われる。西寺では本堂前向かって右手に射手の座を設け、左側に茣蓙を懸け的を吊る。的の左右に鶴と亀の絵を書いた紙を、また的の上部には〆繩をつける。弓は山門において住職の洒浄を受け、五人が交代で2本づつ矢を射る。
折込図
 「享和3年(1803)町並み模式図(図43)」は、石部宿を詳細に描いた最古の図である「往還通絵図」(山本恭蔵家文書)を色分けして模式化したものである。町並みが人為的に区画されていること、宿場の重要施設が大亀町・谷町・仲町に集中していること、町名に水にちなむ名称が目立つことなどがわかる。
 「文久2年(1862)石部宿の町並み景観復原図(図44)」は、同年「宿内軒別坪数書上帳」(山本恭蔵家文書)をもとにして、明治6年、および同22年作製の地籍図の地割を参考に、現行の大縮尺の地図に地割を復原したものである。職業構成を色分けして示したが、宿場の西半部は地割や家屋の規模が大きく、商家や旅籠が多いことがわかる。これに対して東半部では地割・家屋の規模は小さく、農家が多いことが特徴としてあげられよう。また、街道に面していない裏町の存在がはっきりとうかがえ、長屋形式のごく小さな家屋がかなりあることがわかり、宿場における奉公人などの住まいが密集していたとも考えられる。
 本文 四 近世の石部 第三章 第二節 「宿の景観の移り変わり」参照
折込図(裏面)
 小字図(大字石部・東寺・西寺)
 明治6年(1873)「地券取調総絵図」、明治期土地台帳、「字切図」などの地籍関係資料に基づいて作成。したがって特定時期における小字名や区域を示すものではない。
 大字石部の小字名は旧道(東海道)沿いが細かく小字があるのに対して、雨山などの山間部、野洲川沿いなどは大まかな小字分布を示している。
 大字東寺・西寺の小字は東寺が細かい分布であるのに対して、西寺は大まかな小字となっている。
見返し 『東海道分間延絵図』(石部宿) 東京国立博物館所蔵