今から約4,000年前〜5,000年前の中期は、縄文時代で最も栄えた時期である。東日本では集落が急激に増加し、その規模も大きくなる。
中期後半~末にかけて営まれた逢瀬町の上納豆内遺跡(かみなっとううちいせき)では、107棟の竪穴住居跡が確認され、西田町と富久山町にまたがる曲木沢遺跡(まがきざわいせき)や熱海町のびわ首沢遺跡(くびざわいせき)などでも大規模な集落が相次いで営まれた。この時期の東北南部では、前期とは異なり複式炉(ふくしきろ)と呼ばれる特異な屋内炉が流行した。堅果類(けんかるい))栗やクルミなど硬い皮や殻のあるもの)を暖めて皮をむく作業場などと考えられる前庭部、火を焚く石組部、焼き物をしたり、熾(お)きを保管したりする土器埋設部からなる。このような用途であったとすれば、複式炉は、食料の種類と調理法を変える炉形態だったとも考えられる。
曲木沢遺跡では、通常の竪穴住居跡群の一画に巨大な住居跡が発見されている。ここからは有孔鍔付土器(ゆうこうつばつきどき)という、口縁の側面に孔(あな)(穴のこと)が1周する特異な土器が出土した。孔には紐を通して皮を張り太鼓にしたとする説や、酒を入れた容器だとも言われている。
特殊な器を持っていたこの住居跡は、大型であることを考え併せると、集落の人びと全体に関わる行事や集会などに利用された、公共性の高い施設だった可能性が高い。この遺跡ではほかに妊娠した女性をモデルにした土偶(どぐう)が出土している。土偶は、集落の豊壌(ほうじょう)や人びとの再生を祈った土製品と考えられている。
集落の規模がピークに達する縄文中期の終わり頃には、中央に広場をもった環状(かんじょう)の集落が発達した。上納豆内遺跡は直径が約40mの環状集落であり、中央の広場では、まつりや狩りの相談、獲物の分配などが行われたようだ。
この時期に集落の規模が拡大する現象は、植物質食料の活発な利用に加え、集団で行う活動が人びとの結びつきを強めたことが背景にあったと思われる。