縄文後期(約4,000年前〜)になると、敷石住居(しきいしじゅうきょ)が流行する。敷石住居は住居内の一部に石を敷き始めたのが始まりで、中期後半の複式炉の周辺に部分的に敷かれたものが発達したと考えられている。住居の中ほどに四角く石を立て並べた炉があり、日常生活ができるものであるが、この時期には同時に普通の形態の竪穴住居跡も存在することから、敷石住居はまつりなどの際に利用する特殊な施設だったという意見がある。
西田町の馬場中路遺跡(ばばなかみちいせき)の敷石住居は、周囲で数ヵ所の墓標(ぼひょう)と思われる石組みが発見されているだけで、住居はこれ一つしかなかった。この敷石住居は、葬送などのまつりに使用する特別な建物だったようだ。
後期の集落は中期と比較すると発見の例が減少する。この時期は、また寒冷化が進んだ頃で、拡大した集落では、それまでの領域で得られる食料ではまかなえきれず、分散して生活しなければならなかったためと言われている。
(柳沼賢治)