縄文時代になって使われ始めた土器は、煮炊(にた)きを可能にした優(すぐ)れものだった。特に、植物を潰(つぶ)した粉は、煮沸(しゃふつ)すると消化吸収が容易になるという指摘もあるように、固形物(こけいぶつ)を粉にする石皿や磨石(すりいし)の出現によって、さらに本領を発揮したであろう。土器の普及は、木の実などの植物質食料を急激に増大させる方向へと向かわせたに違いない。
中小動物が多くなった縄文時代には、素早い動きの動物を捉(とら)えるために飛び道具が必要であった。弓矢はこの欲求を満たす道具である。旧石器時代にも似たような石器は使われていたが、より鋭く速く飛ぶ石鏃(せきぞく)は、中小動物を捕獲するための洗練されたツールと言えよう。
弓矢のほかに富久山町堂坂(どうざか)の堂後(どうご)遺跡では、猟(りょう)に使用する落とし穴が、列をなした状態で発見された。これは、シカやイノシシなどが通る道筋(みちすじ)に仕掛(しか)けた罠(わな)で、穴の底には先のとがった「逆茂木(さかもぎ)(先端をとがらせた木の枝などを並べたもの)」を設置(せっち)し、落ちた動物を傷(きず)つけ動きを止めるものである。中田町の赤沼遺跡(あかぬまいせき)や先の妙音寺遺跡では、落とし穴の底に逆茂木あるいはその一部が残っており、猟の実態が確認された例として貴重である。落とし穴に動物を誘導(ゆうどう)する作業は、おそらく何人かの共同作業であったことが推測される。
海では魚介類(ぎょかいるい)を捕獲(ほかく)するために、骨で作られた銛(もり)や釣り針それに錘(おもり)を付けた網(あみ)などが使われた。
内陸でも、湖南町舟津の山ノ神遺跡、逢瀬町の四十内遺跡(しじゅううちいせき)、田村町の鴨打(かもうち)A遺跡、西田町の町B遺跡などで土製や石製の錘が出土している。これらは、近くの河川や沼で水産物を捕るための道具であったと考えられる。そのことを彷彿(ほうふつ)とさせるのが、富久山町の妙音寺遺跡で出土した淡水産(たんすいさん)のカワシンジュガイである。海のないこの地域でも川や沼などで水産物の食料を得ていたことがわかる。