九州北部では、稲作が伝えられて間もないころに、「遠賀川式(おんががわしき)」と呼ばれる弥生土器が使われていた。西日本以西に広がったこれに類似する壺(つぼ)や甕(かめ)が東北でも出土している。それは、会津若松市墓料(ぼりょう)遺跡、三島町荒屋敷(あらやしき)遺跡、石川町鳥内(とりうち)遺跡、霊山町根古屋(ねこや)遺跡などの土器で、数は少ないながら、列島で最初に稲作を始めた地域の影響が、早い時期にこの地方にも伝わったことがわかる。
しかしこれらのほとんどは、東北の縄文時代晩期の伝統を受け継いだ土器と一緒に出土しており、中には模倣(もほう)したものや縄文をつけたものなど、そのものとは言えない土器もある。稲作を始めた地域の影響を受けながら、一方では、縄文時代の伝統も色濃く残っていた。
アメリカインデイアンが使っていたものと似ているために名付けられたアメリカ式石鏃(せきぞく)は、弥生時代に北関東から東北にかけて使われた縄文時代的な石器で、熱海町水無(みずなし)遺跡や大槻町福楽沢遺跡で出土している。また、大槻町阿弥陀壇(あみだだん)遺跡、柏山(かしわやま)遺跡、田村町南山田遺跡から出土した石鍬は、縄文時代から続く土掘具(つちほりぐ)の一つである。
弥生時代の東北では鉄製品がほとんど使われず、狩猟や農耕に必要な道具が石で作られた事実からみて、鉄の入手が非常に困難だった地域と思われる。
生活用具のほかに埋葬方法にも伝統の残存がみられる。縄文時代の終末から弥生時代中期前半まで造られた再葬墓(さいそうぼ)は、遺体を白骨にしたあと、骨を土器に入れて埋納する方法で、最も古い再葬墓が福島県の会津から中通りにかけて発見されているため、この地域で成立したと考えられており、逢瀬町の桜木遺跡や福楽沢遺跡で確認されている。
再葬の際に使う土器の中にしばしばみられる人面付土器(じんめんつきどき)も、縄文時代の土偶のなごりと言われており、田村町徳定遺跡で出土している。
このように、東北の弥生時代には、伝統的な縄文時代の要素と新たに取り入れた文物とが混在するという特徴がある。例えば南西諸島では、本州の平安時代頃まで稲作は行なわれず、漁労を中心とした生活が残っていたと考えられている。これが示すとおり、稲作はそれが可能な気候であることが条件の一つではあるが、必ずしも絶対条件ではなく、唯一の選択肢(せんたくし)ではなかったようだ。縄文時代の伝統を残しながら稲作を取り入れた生活形態は、東北の弥生人が自ら選択したものだったと考えられる。