2 東北の主な古墳とその立地

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 古墳は、埋葬される豪族の生前の本拠地に築造された。よって古墳のある場所は、相応の政治勢力の拠点であり、交通の要衝(ようしょう)でもある。

 前期の東北で築造された最も大きい古墳は、宮城県名取市の雷神山(らいじんやま)古墳である(墳長168m)。次いで、福島県会津坂下町の亀ヶ森(かめがもり)古墳(墳長127m)、会津若松市の会津大塚山(あいづおおつかやま)古墳(墳長114m)、いわき市玉山(たまやま)古墳(墳長113m)と続く。

 これらの古墳は、東北南部の主な地域に分布しており、当時の連絡や情報の移動ルートと密接に関連している。亀ヶ森古墳は北陸への、会津大塚山古墳は中通りへの出入り口に当たる場所にあり、玉山古墳付近は、海上交通と関連して成長した政治勢力の本拠だった可能性が高い。このような視点で見ていくと、東北南部の多くの地域を結ぶ位置に立地しているのが雷神山古墳である。この古墳は、東北南部を縦断する阿武隈川と、奥羽山脈に源を発する名取川が太平洋に注ぐ付近に築造されている。阿武隈川の中・上流は福島県中通りのほとんどを占め、宮城県の白石川で分岐すると山形県の置賜(おきたま)へとつながる。また、名取川は、水源を越えると山形盆地に連絡する。一方で、太平洋に面しているのは、海上交通においても重要な場所だったからであろう。

 名取に有数の政治勢力が形成され、東北最大の古墳が築造された背景には、東北の中で最も多くの情報が海や河川を介して集まる場所だったことが大きな要因と思われる。

 一方、阿武隈川中・上流域に築造された初期の古墳は、須賀川市の仲ノ平(なかのだいら)3号墳(前方後方墳、墳長17.5m)、大玉村の傾城壇(けいせいだん)古墳(前方後円墳、墳長41m)、仲ノ平6号墳(前方後方墳、墳長23.8m)、郡山市正直(しょうじき)35号墳(前方後方墳、墳長37m)、大安場(おおやすば)古墳(前方後方墳、墳長約83m)、須賀川市団子山(だんごやま)古墳(円墳か、直径約50m、墳形と規模は流動的)の順に築造されたと考えられる。これらの古墳はいずれも中通り中部に分布しており、北は宮城県角田市や柴田郡村田町まで、南は、栃木県那須まで古墳の空白地帯となっている。前期古墳のこのような分布には、どのような意味があるのだろうか。

 各地で古墳が築造され始める前後には、特定の地域で使われていた土器が、地域を越えて大きく移動する現象が見られる。これは、弥生時代の地域の枠を超えた交流が急速に盛んになったからであり、東北南部には、北陸や東海(駿河(するが))で作られた土器が持ち込まれたり、土器の特徴のみが伝わったりしている実例がある。その分布を見ると、北陸の土器は会津を介して中通りに至り、ここで一部南北に分かれるものの、いわきに向って移動しているのに対し、東海(駿河)の土器は、逆に太平洋側を北上し、いわきから阿武隈高地を経て会津まで達している。それぞれの地域の特徴をもった土器が、一方は東へ、もう一方が西へというように方向性をもって移動している事実から、前期の東北南部には、いわきと北陸を結ぶルートが存在し、東西方向に行き来する情報の流れが極めて頻繁だったことがわかる。

 以上から、阿武隈川中流域に前期の古墳が集中して築造されたのは、この地域が太平洋と日本海を結ぶ内陸交流の結節点にあたることで、政治勢力の成長が促された結果であったと推定される。

(柳沼賢治)

東北の主な前期古墳


北陸系土器の分布と移動ルート


東海(駿河)の土器の分布と移動ルート