中期になると、前方後方墳はなくなり円墳や前方後円墳など円形原理の古墳だけになる。このことは、地方の豪族達が本格的に大和朝廷の傘下(さんか)に加わった結果と理解されている。
政権中枢の豪族の墓は、この時期に奈良盆地から大阪平野に場所を移し、古墳時代を通して大きさがピークに達する。地方では、それまで築造されていなかった地域に突如として大型古墳が出現したり、またその逆だったりというように、全国的に古墳の築造状況が変化する。これは、大王の権威が著しく強くなり、地方豪族との間に前期とは異なる関係を持つようになったことの現れとされている。
前期に大型古墳がみられた東北では、中期になると一時的に古墳の築造が低調になるが、後半(5世紀後半)には再び活発に転じる。
前方後円墳の北限が岩手県奥州市まで広がり、角塚(つのづか)古墳(前方後円墳、墳長45m)が築造されたのもこの時期である。前期に大型古墳が数世代にわたって築造された会津盆地では、中期の古墳が極端に少なくなり、大型古墳がみられなかった白河や福島盆地で築造されるなど、地域勢力が浮き沈みするのは全国的な動向と一致している。また、前期のような墳長が100m前後の古墳はなく、数十mのものが多い。このような現象は、古墳の規模がピークに達する政権中枢と対象的で、大王の権力が強大になったという理解と符合する。
阿武隈川流域では、中小規模の前方後円墳が流域に沿って相次いで築造された(古墳築造の低調な時期もあった)。それらの古墳に立てられた円筒埴輪(えんとうはにわ)には、最も上段の突帯が口縁のすぐ下にあるという共通した特徴が認められる。本宮市の天王壇(てんのうだん)古墳(前方後円墳、墳長41m)、安達郡大玉村の谷地古墳、伊達郡国見町八幡塚(はちまんづか)古墳(前方後円墳、墳長66~68m)、同じく国見町の堰下(せきした)古墳(円墳、直径21m)、宮城県角田市の間野田(まのた)古墳(円墳、規模不明)、さらに郡山市田村町の大善寺でも採集されており、南北の広い範囲に分布している。遠隔地では、栃木市藤岡町の愛宕塚(あたごづか)古墳などにあり、同じ系統の工人達によって作られたものと考えられている。
中期古墳の分布と埴輪の共通性から、阿武隈川流域の豪族達は政治的に親しい関係をもつと同時に、北関東の豪族を通して埴輪文化を取り入れたものと思われる。