5世紀の倭の王は、国内の政治や軍事の権力を握ろうと、中国に使者を送り高い称号を得ようとしていた。また、人的交流や半島からの難民の移住などもあり、先進的な技術や文物が倭国にもたらされた。
古墳時代の人びとは、縄文時代以来の竪穴住居に住んだが、中期になると住居の一画にカマドが造りつけられた。中には、鉄を叩(たた)く台石と炉のある鍛冶工房(かじこうぼう)も見られる。鉄の加工が集落で行われるようになったのである。大槻町清水内遺跡から出土した算盤玉形紡錘車(そろばんだまがたぼうすいしゃ)(糸を紡ぐ時に使う弾み車)や田村町南山田1号墳(円墳、14×13.8m)から出土した硬質の小型把手付壺(こがたとってつきつぼ)、把手が付き底に複数の孔を開けた蒸し器(多孔式の甑)など、朝鮮半島に由来する文物が急速に普及し、5世紀の列島と半島の交流の影響がこの地に及んだことがわかる。
中期になって加わったねずみ色の須恵器(すえき)は、多くが朝鮮半島から渡来した工人が大阪に開いた官営工房といえる窯場で焼き、北は北海道までの広い範囲に運ばれた。阿武隈川中・上流域、特に南山田遺跡では栃木県宇都宮周辺や宮城県仙台平野と並んで、樽形𤭯(たるがたはそう)や二重𤭯(にじゅうはそう)(小型壺の周囲に透かしが覆う土器)、器台など、特別な時に用いる稀少な器種が目立つ。日常使用するもの以外の稀少な器種を手に入れることのできた集落には、須恵器の流通に関わった集団あるいは有力な豪族が住んでいた可能性が考えられる。
このように、古墳時代中期の阿武隈川流域では、古墳と朝鮮半島由来の文物の分布から、南北方向の交流が格段に高まったとみられる。
(柳沼賢治)