古墳には大型のものばかりではなく、小規模で群集するものもある。大型古墳の主を支えた階層の墓であるが、それら小規模な古墳の集まりを「群集墳」と呼んでいる。郡山盆地の大規模な群集墳として、阿武隈川の左(西)岸には大槻古墳群があり、右(東)岸には蒲倉(かばのくら)古墳群がある。大槻古墳群は、かつて100基ほどあったらしいが、現在ではほとんど残っていない。1基の発掘調査が行われていて7世紀中頃の土器が出土している。
蒲倉古墳群は、直径が約10m前後の71基の円墳からなる(数次にわたる発掘調査によって数が増加している)。この古墳群は、横穴式石室の構造や副葬品(鉄鏃(てつぞく)など)の年代が7世紀と考えられるものの、墓の周囲で行われた祭祀(さいし)で使用した土器は奈良時代のものがほとんどである。これを、時代を超えて利用された古墳群と考えるかどうかは、さらなる検討が必要である。
出土品を観察すると、副葬品には戦闘に使用する鉄鏃が多い。また、同じ時期の集落に比べて須恵器の出土量が多いのも特徴である。その中には製品として流通しないような釉薬(ゆうやく)(焼き物の表面にあるガラス状のもの)が垂(た)れた粗悪品(そあくひん)が含まれ、窯場(かまば)の近くあるいは製作する工人が住んだ集落などで出土するものと似ている。
奈良時代の軍団(古代の軍事組織)に所属する兵士が須恵器の生産にも従事していたことは、窯から出土した瓦に軍団の職名が書いてある例から明らかで、田村町の東山田遺跡でも「火長(かちょう)(軍団の10人を統率する役職)」と書かれた文字瓦が出土している。
これらを総合すると、すべての古墳かどうかは別として、少なくとも須恵器の生産や軍事に関わりのある人物の墓が古墳群の中に含まれている可能性が考えられる。今後、石室の構造や副葬品の分析を通して性格を明らかにしなければならない古墳群である。
終末期には、小規模な横穴式石室墳のほかに、崖に横から穴を掘った横穴墓と呼ばれる墓も造られた。田村町小川の蝦夷穴横穴墓群(えぞあなよこあなぼぐん)は、これまでに2基の発掘調査が行われているが、12号横穴墓からは柄頭(つかがしら)の形状が円筒状で先が丸い方頭大刀(ほうとうたち)が一振(ひとふり)、13号横穴墓からも三振の大刀が出土している。13号墓の一振には、装具の一部に銀象嵌(ぎんぞうがん)されていた。これらの大刀は、中央政府から官人化した地方豪族に与えられた身分を表す品と考えられている。